インターネットは道である

世の中、猫も杓子もインターネット、寄ると触るとインターネット、何が無くともインターネットで、インターネットとつきさえすればどんな本でも売れてしまうという世の中だ。これほど、もてはやされるインターネットだが、「どうやって使うか?」「何が出来るか?」というハウツー本ばかり売れていてインターネットについて「カガク的」にアプローチする本はまだ少ないようだ。まだ、誰もやっていない、目新らしい、となれば我らがインターラクティブ・サイエンス・コラムの出番である.......というわけで、今回は「インターネットの科学」を枕にして話を進めて行こう。


僕は当然のことながら「 インターネット」の専門家ではない。だが、大学で計算機を用いた物理学研究にいそしんでいるわけだから、まあ、世間一般の人よりはインターネットに接する機会が割と多かった。初めて国際e-mailを打ったのは1989年、ドイツあてだったが何と、返信が送られてくるのに5日かかった。別に受け手が4日間留守にしていたわけではない。受け手はすぐ返信を送ったのだが、日本とドイツをつなぐ途中の経路が調子が悪かったのである。これでは航空郵便の方が早いではないかとがっかりした覚えがある。 電子メイルを「メイル」=郵便と名付けたのは実に的を得ていたわけだ。

まあ、それでも、うまく行くときはわずか数秒で日本からドイツまでメイルが届く。受け手のドイツ人の教授は面白がって電話代わりに使おうと試みたくらいだ。(ま、うまく行かなかったけど) そのときの感想としては「こんな便利なものが無料で使えたら郵便事業や通信産業はつぶれるな」ということだった。今でも「電子メイル(あるいはインターネット全体)の費用は誰が払っているのか」という質問はよく聞かれるが、これは逆に言うと「こういうものは課金されて当然である」という暗黙の仮定があるからこそ出てくる疑問である。電子メイルというと電話やファックスの延長で考えがちだからこのような仮定が成立するのだろうが、個人的にはインターネットは電話やファックスの延長で考えるのは間違っていると思っている。それでは、なんだと思えばいいのか?我々の身近にいい例がある。「道」だと思えばいいのだ。その辺の道を歩くのに我々はお金を払う必要は無い。それは我々が日々払っている税金の中から(僕の給料もそこから出ているわけだ。スミマセン)道を作り維持する費用が出ているからだ。インターネットもそうなるべきだ。今はまだ、ごく一部の人しかインターネットを使っていないから税金から費用を出すわけにはいかないが、きたるべき近未来には過半数の人がインターネットを使うようになるだろうから、そうなったら、税金から費用を出して無料でインターネットを使えるようにする。普通の道に車幅制限があったり、有料だが快適で高速の高速道路があったりするのと同じように、インターネットにもあまり大きなファイルを転送してはいけないという「容量制限」のある線や、高速だが特別料金の必要な「高速回線」などが出てくるだろう。そうなると、一体、何が起きるだろうか?

一般にインターネットというと将来的には在宅勤務を助け、地方と中央の格差を無くす、という文脈で語られることが多いが、個人的には逆の意見を持っている。今、家の値段は何で決まっているか?家の品質では無い。どんなに狭くても東京に近ければ高価なのだ。東京=便利なところ=人がいっぱい集まっていて広い道や鉄道があり、便利なところ。インターネットも同じことだ。容量の大きい、高速の回線は現在、人口密度の多いところにまず、敷設されるだろう。人口密度の少ない地方に、高速の大容量回線を敷設するのは費用の無駄だと判断されるだろう。かくして、未来の住宅広告はこうなる。

「10GBPS幹線まで、1GBPS回線敷設済み。専用回線。」

「○○駅バス15分、上下水道完備」の代わりというわけだ。駅までのアクセスの便利さを競うのは結局突き詰めれば、中央=東京へのアクセスの便利さを競う事に他ならないが、それと同じように、太い回線へのアクセスを競うようになるだろう。そうなれば、容量の少ない、遅い線しか敷設されていない地域=地方、の地価は下がってしまうだろう。在宅勤務だって、自宅まで太い回線が引かれていて初めて意味があるわけだが、職場と自宅で同じ速さ/太さの回線が使えるようには絶対ならないと思う。そうなると、結局は太い回線を使うために中央にある会社に出社する羽目になるのではないか。もっとも、東京がその時も中央であるとは限らないけれども。全然、別の場所が中央になっているかもしれない。しかし、これはあくまで近未来の話で、今現在の話ではない。だったら、インターネットを「道」よばわりするのは早計で、現時点ではただのよた話しに過ぎないのだろうか?いや、そうではない。「カガク的」にインターネットの挙動を観察して見るとインターネットはある意味ではすでに「道」の様に振る舞っているのだ。

ここでちょっと、インターネットの技術的な詳細に立ち入らせていただこう。インターネットではパケットという技術を使って通信を実行している。パケットとはもともと小包の意味で、パケット方式を用いた通信では、データは一度に送られるのではなく、細切れの小さなデータの塊に分けられてから送られるのである。この方式では一本の回線を多くのマシンが共有して、データの小さなかけらであるパケットを一本の回線に流すので、混んでいるときは回線が遅く感じられるし、空いているときは早く感じられる。個々のマシンは勝手にパケットを流すわけだから、いつ混んでいていつ空いているかというのはまったくランダムなように思うが、実際には非常に特徴的な揺らぎ方、具体的には 1/f揺らぎというものになっていることが知られている。つまり、ネットワークのどこかに測定装置を置いて、パケットがどのくらいたくさん流れてくるかを調べるとその揺らぎ方が1/f揺らぎになっているのだ。インターネットで1/f揺らぎになっているのは実はパケットの流量だけではなくて、  ネットニューズやメイリングリストの記事の流れも1/f揺らぎになっていることが解ってきた。つまり、インターネットの上を流れているデータの流れ自体が1/f揺らぎになっているのだ。

で、現実の道路での流れ、つまり、交通流の方はどうかというと、これはもう20年くらい昔から1/f揺らぎになっていることが知られている。つまり、インターネット=道、パケット自身やネットニュース,メイリングリストを流れる個々の記事=車、と思えば、その両者の従う法則は同じだということだ。人間はインターネットを道だと思って作ったわけではない。そうした人間の思惑とは別にすでにインターネットは道としてふるまい始めている。人間の作ったものだからといって、人間が全てを理解できるわけではない。インターネットは作るばかりでなくその動力学をまじめに研究しなくてはいけない時期に差し掛かっている。それはかつて、人間が作り上げた産業技術が「 公害 」という形で人間の予想をくつがえすような現象をもたらしたのと良く似ている。(まあ、インターネットで公害が起きる、というのは想像が難しいが)インターネット、それは、我々の生活を変えつつあるという意味でも、また、星の運動や生物の仕組のように科学の対象という意味でも、まさに新しい、それ自身固有の法則を内包する、「世界」なのだ。その中で、人類はどのように生き、進化して行くのだろうか。


インターネット
まがりなりにもMacUserなどという高い(MacP○werやCD-ROM付録がつく前のMac○ifeに比べて)雑誌、しかも、値段が高い上にその値段が高くなっているいる最大の理由であるCD-ROM付録の貴重なスペースの一部をインタラクティブ・サイエンス・コラムなどという読んでも何の役にも立たないものに費やしている雑誌を読んでいる奇特な読者の皆さんなら、まかり間違ってもインターネットに何の興味も無いということは無いと思う(実際に使ったことがあるかどうかは別にしても)。インターネットのインターはインターラクティブ・サイエンス・コラムのインターでもある(ちょっと違うか)わけだが、基本的にはインターハイ(高校総体)、インターナショナル(国際)などのインターで、「複数のものにまたがって」という意味。だから、インターネットは「複数のネットにまたがって」という意味である。ここでいう個々のネットとは、BBSの様な商用ネットワークでもいいし、企業内のLAN(ローカルエリアネットワーク)でもいい。ともかく、それらをつなげたものがインターネットというわけだ。

計算機を用いた物理学研究
インターネットの物理学に対する影響は絶大なものがある。「研究の仕方」そのものが激変してしまった。インターネットのサービスで最初に広く行き渡ったのはe-mailだが、これにより、日本と外国との間の壁が一気に低くなった。それまでは、時差のせいもあり、欧米との連絡は困難だった。電話はかけられない(こっちがおきてる時は向うは寝ている)し、郵便では遅くて話しにならない。ファックスが唯一の手段だったが、まあ、ファックスの機械が部屋にあるわけではないから送るにも受け取るにもちょっといささか面倒だし、第一、料金が馬鹿にならない。e-mailならファックスと違って無料である。昼間送っておけば夜の間に向こうが起きていてそれを読み、返事を書くから都合がよい。特に、協同研究などではどっちかが寝ている間はもう一方は起きて働いているわけだから「一晩寝ると自分は何もしなくても研究が進んでいる」という「靴屋のこびと」状態さえ出現し、時差のマイナスをプラスに転じることさえできた。大体、このコラム自体、電子メイルが無ければ不可能だったろう。忙しい研究生活の合間を縫って原稿を書き、電子メイルで編集部に送りつける。これがひと昔前のように、郵便だったり、編集部にいちいち出向いていたのでは、本業の研究がおろそかになってしまう。半年間、一万字のコラムを月刊誌に連載して、編集部に行ったのはたった一回、というのはかなり驚異的な数字ではないだろうか?(しかも、このコラムを書き始めるまで、僕は編集部はおろかソフトバンクの誰とも知合いだったわけでもないのだ)
その次にインパクトが大きかったのはオンラインで論文を配布するプログラムだろう。研究者は基本的には研究を行ない、その結果を論文にして発表することを目的とするが、論文は実際に印刷されるまでに、第3者による論文のチェック、製版、校正などのプロセスを経るため、書いてから実際に印刷物になるまでに一年以上かかるのも稀ではない。これでは、このせわしない世の中、研究が古くなってしまう。そこで、昔から、印刷前の論文をタイプで打って回覧するという制度があった。しかし、これをきちっと、組織的にやるには手間がかかるし、日本の様な「僻地」には情報が回ってこないこともままあった。インターネットの出現で様相は様変わりした。タイプ打ちして回覧する代わりに、電子的なファイルを
あるところにある計算機にe-mailで送りつける。論文を受け取った計算機は番号をふって目次を作り、請求があれば電子メイルで請求者に配送する、という システムになった。こうなると、日本と欧米の時差はどうでもよくなり、日本の情報僻地性は一気に薄くなった。その後、メイルで配送するやり方はftp方式、gopher方式を経て、今をときめく WWW方式になった。(その当時は、まさかWWWがこの様な使われ方をするようになるとは夢にも思わなかったものだ。なにせ、今や、論文の代わりに、ヌード写真を配布するんだから)
この結果、印刷物である論文の地位が低下し、問題になっている。電子的に既に読むことができるものをきれいに印刷しただけの物を読むために金を払う御人好しもいないからだ。最近の流行は、雑誌そのもののWWW化である。印刷せずに、html形式のデータを計算機の上で公開してしまう。読者は必要なページだけプリントアウトすればいいわけだ。このやり方の最大の問題点は、どうやってお金をとるか?である。たとえ、パスワードとユーザIDを導入した会員制をとっても、データを全部ダウンロードされて他の計算機の上に移植されて無料公開されたらそれまでだ。かといって、デジタルデータのダウンロードを禁じたら、 お金を払ってまで見る人はいなくなるだろう。もっとも、学術出版物が利益を上げる必要はもともとないのだから、ボランティアで運営してやっていけばいい、という考え方もある。
この様に、一般よりも速くインターネットが普及した物理の世界ではいろいろなことが起きている。世界中の人がインターネットでコネクトされたら、何が起きるか?想像を絶しているとしかいえない。

あるところにある計算機
論文を配布する国内の有名なサーバとしては
http://www.yukawa.kyoto-u.ac.jp/がある。どんなものかちょっと覗いてみるのもいいだろう。
システム
一方で、このシステムは激しく研究をゆがめてしまった。ホームページをお持ちの方なら良く解ると思うが、ホームページの人気を高めるのにはいつもデータを更新していることが大事である。研究者も我先に論文を書きまくり、ちょっとでも新しいということを競うようになり、論文は粗製乱造状態に突入した。内容よりも常に先端にいることが重視されるようになってしまったのだ。このままだと、物理の研究は駄目になり、物理学者というものが消滅する日も遠くはない。
WWW方式
あまり知られていないようだが今をときめくWWWはCERN(ヨーロッパの有名な研究所)の物理学者が、一ヵ所に置いた大量のデータを世界中から自由にアクセスできるようにして共有するために考え出したものである。さすがにその当時は動画や音はおろか、画像すら入れられなかった。WWWが今日の様にメジャーになるのは、良く知られているように画像を扱えるMosaicというブラウザが普及してからである。やっぱり、文字だけではインパクトが無い。(このコラムも横山さんの素敵なイラストが無いと結構、味気ないでしょ?)
お金を払ってまで見る人はいなくなるだろう
実際、この問題は著作権上の大きな問題を含んでいる。どんな著作権物でも私的なコピーまでは禁じていない。自分で購入したCDをテープに録音して、自分だけの音楽テープを作ってもいいわけだ。だから、オンラインの論文にアクセスする権利を買った人は「私的使用」の目的でデータをダウンロードすることは許されるだろう。では、それをホームページに置いて公開するのはまずいだろうか?そうとも言えない。自分で編集したテープを友達とのツーリングに持参して、みんなに聞かせても法律違反には思えないからだ。では、どこからが法律違反だろうか?公開したホームページを世界中の人がアクセスしたら、元の有料のホームページにアクセスする人は居なくなり、明らかに損害を与えることになる。どう考えても法律違反の様な気がするが、今の行為のどの時点で?と聞かれると今一つ解らない。
電子メイルを「メイル」=郵便と名付けたのは実に的を得ていた
僕が所属する大学は、日本で最初にインターネットの実験線であるJUNETが立ち上がった大学の一つだから、当時としても環境はすごく良かったはずだが、それでもこんな調子だった。基本的に、e-mailはバケツリレー方式で、A地点からからE地点に送るのに、B、C、D地点で中継しながらメイルを送っていたから、ポストから収集して、分別し、別の郵便局に送って、そこから個人に配分、というやり方をとっている郵便の集配とそっくりであった。このため、「同じ建物の上の階に住んでいる同僚に電子メイルを送るのにアメリカ経由していた」という笑えないギャグも昔は存在した。これに対し、最近の電子メイルは相手の存在が確認できない限り送り出さないようになってるから送ってから受け取るまでに5日間もかかってしまうということは無くなった。しかし、代わりに
別の問題が生じてしまうのだが。
別の問題が生じてしまう
くどいようだが僕はインターネットの専門家でないので結構間違ってるかもしれないが、僕の見るところでは今のメイル送出のやり方は以下の様になっているようだ。いきなり、本文を送るのではなく、まず、「これから本文を送りますよ」みたいなお知らせを送り出す。この短いお知らせはやはりバケツリレーで送られるのだが、短いメッセージだからいちいち途中の機械にため込むこと無く、素早くバケツリレーされる。ところが、バケツリレーしているマシンたちがやっていることは、流れてきたお知らせが自分の知っている宛先であればそこに向けて送りだし、そうでなければ無責任に「僕は知らない」といって次のマシンに渡すだけなのだ。では、誰かがこの世に存在しない宛先を間違って書いてしまったらどうなるだろうか。お知らせを受け取ったどのマシンも自分は知らない宛先であるから、永遠にお知らせが世界中を駆け回ることになる。インターネットの情報を送るための線の容量は決まっているから、こういうものを放っておいたらいくら図体の小さなお知らせ信号といえどもチリも積もれば山となる、でインターネットを止めてしまいかねない。そこで、どうするかというと現在のやり方ではどうも、「ある回数以上たらい回しにされたお知らせ信号は宛先不明として処理する」というやり方をとっているらしい。そして、これは今の標準では30回なのである。で、この数は十分かというと全然そうではない。日本からヨーロッパにメイルを送るにはまず、国内でバケツリレーし、アメリカに渡し、アメリカを横断してからヨーロッパに行く。この時必要なバケツリレーの回数がちょうど30回くらいなのである。そうなると、どうなるか。30回以上、バケツリレーをしないといけない場所は日本からはメイルが送れない場所になってしまうのである。その結果、「絶対、存在する宛名に電子メイルが送れない」という不可思議な現象が起きてくる。僕の経験では、フランスやスペインがちょうどこの制限にぎりぎりひっかかる。「それなら、30回でなくて60回に直せばいいではないか」と思うかもしれないがそうなると、本当に宛先不明メイルを送ろうとしてしまったときに出る行き場の無いお知らせ信号を今までの倍、60回もたらい回ししてからでないと破棄できず、インターネット自体のパフォーマンスが落ちることになりかねない。たまにしか行き来が無い日本⇔ヨーロッパ間のメイルのために日本およびヨーロッパ域内のインターネットの機能を落としていいのかというのは微妙な問題だ。「みんなが正しい宛先を書けばいい」というのも駄目で、バケツリレーの途中のマシンが故障して自分宛のお知らせ信号を認識できなくなったら、それは正しい宛先でも宛先不明のお知らせ信号になってしまい、たらい回しが始まる。実際、そのようなことはよくあるようで、つい昨日も僕は大学からリムネット(大学や企業に所属していず、インターネットにアクセスする手段を持たない人達に、電話を介してインターネットにアクセスする機会を与える商売をしている会社をプロバイダというが、リムネットはそのひとつ。)にメイルが送れなくなった。あるコマンドを用いると、お知らせ信号がどこのマシンをバケツリレーされているかチェックすることができるのだが、それを使って経路を見てみると、見事なまでに同じ場所をぐるぐる回っているのであった。但し、このコマンドはネットワークに要らない負荷をかけるので多用してはいけない。え、僕ですか?僕はこの原稿を書くためにテストをする必要があって使いました。ハイ。
パケット
インターネットを実現するのに最大の問題は通信方式だった。例えば、日本からWWWでヨーロッパにある文書を読むとしよう。人間が読んでいる時間に比べて、データの転送に使われる時間はずっと短い。それなのに
回線をつなぎっぱなしにするのは資源の無駄遣いというものだ。データを転送し終わったらすぐに接続を切るべきだ。だが、回線が足らなくなって話中になっては不便この上ない。いつでもつながるのが望ましいが、そうなると非常に多くの回線が必要であり、無駄なことこの上無い。WWWなら、話中でもあきらめれば済むが、そうはいかない機能もある。そこで、インターネットではパケットという技術を使ってこの困難を回避した。この技術を使えば、一本の回線をたくさんのマシンで共有することができる。 まず、送りたいデータを小さな塊(=パケット)に分けて送り主と宛先を示すタグをつける。それから回線にデータを流せば一本の回線に多くの計算機の間を行き来するデータを流しても混線しない。回線につながっている計算機はパケットが来たら自分宛かどうかをチェックする。もし、自分宛でなければ何もしない。自分宛であれば、送り主を記したタグを見て送り主を知り、送り主に返事をする。
回線
ここで言っている「回線」というのは、電話回線の様にデータの送り手と受け手が一対一で結ばれているようなものの事をいう。例えば、電話はその典型例で、回線を使用中は例え電話のこちら側と向こう側で沈黙が続いていても、その回線は使用中で、他の人は使えない。その結果「話中」という現象が生じるわけだ。
そうはいかない機能
これはインターネットの機能というより、一般的なネットワークの機能上の問題である。例えば、ネットワークではファイルの共有というのを行う。空間的に離れたところにあるマシーン上のハードディスク上のデータをあたかも自分の手元にあるディスク上にあるように扱う機能だ。これは、基本的には、離れたところにある計算機上のデータへのアクセスが発生したら、通信機能を使ってデータを呼び出すわけだが、この時「話中」が出たのでは話にならない。かといって、計算機をすべて専用線で一対一につなぐには非常に多数の回線が必要になる。マシンが10台なら45回線、100台なら4950回線必要だ。しかも、つないであるからといっていつも通信があるかどうかは分からない。全然使われなければ資源の無駄になってしまうのだ。
1/f揺らぎ
昔、某大手電気メーカーが1/f扇風機、というのを作って売り出した。普通の扇風機には風量の調節機能はついているが、一度、風量を決めてしまえばあとは一定の強さの風が送られてくるだけだ。これに対し、自然の風というのは決して一定ではなく、強弱のようなものがある。ごく、単純に言うと、時々、強めの風が吹いてくるが、大体は緩やかな風が吹いてくる。大まかに言ってこういう揺らぎ方をする場合、1/f揺らぎという。パケットの流れが1/f揺らぎを持つということはつまり、時々、大量のパケットが流れてくるけど、たいていはネットワークはすきすきであるということである。もし、ネットワークにつながっている計算機が全くお互いに独立で勝手にランダムにパケットを流しているなら、こういう揺らぎ方には決してならない。実際、それぞれの計算機は必ず他の計算機とやり取りをするためにパケットを流しているのだから、お互いに微妙な相互作用をしながらデータをやりとりしており、その結果、1/f揺らぎが生じるわけだ。1/f揺らぎというのは、非常に広く見られる現象でインターネットや交通流の他にも、ここで述べた風の揺らぎ、音楽を単純に音波の強弱だと思ったときの揺らぎ方、あるいは、絵画の色の濃淡、など、非常に広い現象にみられる揺らぎであり、その原因は解っていないものが多い。勿論、インターネットの1/f揺らぎの原因もつい最近、研究が始まったばかりである。(1/f揺らぎについての入門書は「ゆらぎの世界」武者利光著、講談社ブルーバックス、がある。大変素晴しい名著である。)
1/fノイズの詳細について数学的にちゃんと知りたいという奇特な人は
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ここで言っている1/fのfは揺らぎの周波数を表わす。ラジオの電波の周波数がが960KHzだとか、家庭用交流電源の周波数が50Hzだとかいうときのあの周波数である。周波数fが高ければ振動の激しい細かい揺らぎ、低ければゆっくりとした緩やかな揺らぎだ。ある特定の周波数だけからできている振動は普通は存在しない。我々の声は「音」という空気の振動だが、いろいろな周波数の重ね合せでできている複雑な振動である。というより、料理がいろいろな食材の微妙な組み合わせででき上がるように、音楽にしろ何にしろ、様々な周波数の振動を組み合わせることで妙なる調べを作り出すわけだ。ここで1/fと言っているのはこの周波数の組み合わせの割合のことである。揺らぎの中に周波数に逆比例する割合で振動が調合されているとき、これを1/f揺らぎというのだ。つまり、周波数の低い、ゆったりとした揺らぎほど多く含まれているような揺らぎを1/f揺らぎという。1/f揺らぎでは10Hzの揺らぎは100Hzの揺らぎの10倍多く含まれているのだ。自然や生物や人間の感覚はこのような調合割合の揺らぎを好むようで非常に広く見られる。その理由はあまりよく知られていないが、ひとつだけ言えることは1/f揺らぎ=決して繰り替えしがない揺らぎ、であるということだ。周波数に逆比例する形で揺らぎの成分が配合されているということは、どんなに周波数の低い、つまり、周期が長い揺らぎも含まれているということで、つまり、逆の言い方をすればどんなに長く観測し続けていても、いつも新しい挙動に出会うということだ。(新しいパターンが出尽くして繰り返しだけになったら、それはつまり、これから先は既に見たものの繰り返しに過ぎない、つまり、一番長い周期を究めてしまったということに他ならない)人生にしろ、自然の挙動にしろ、決して同じことの繰り返しではなく、千変万化である。むしろ、こっちの方が自然なのであって、「周期的な振動」というのは人間が作り上げた非現実的な幻想で特別な場合なのかもしれない。
ネットニューズやメイリングリスト
くどいようだが、この記事はインターネットの紹介記事ではないのだから、用語を詳しく紹介しても仕方がないのだが、ネットニューズやメイリングリストといってもピンと来ない人もいるかもしれないので簡単に説明して見よう。
メイリングリストは電子メイルのちょっとした変形版である。普通、電子メイルは個人から個人へと送られるものであるが、同じ内容を複数の人に送る機能も備わっており、これを用いると電子メイルは「お知らせ」を多数の人々に伝えるために使うことが出来るようになる。しかし、毎回同じ人々に送るのなら、毎回名前を入力するのも面倒だ。仮想的な宛先を作り、そこにメイルを送ると登録されている人全てに送られるようにするのが便利である。これが、メイリングリストである。現在ではこのメイリングリストは、多数の人に同じ内容を手軽に送るという目的ではなく、むしろ、ネットワークを介した会議の様に使われている。つまり、まず、会議のメンバーを決め、これをメイリングリストに登録する。そして、会議のメンバーは発言をメイリングリストに送る。すると、全ての発言が会議の登録メンバーに送られるから、あたかも会議をしているように議論を進めることが出来るのである。実際には、全ての人が同時に発言を読むわけではないから(メンバーがみんな、端末にへばりついているのでもない限り)、時差付きの会議になってしまうが。メイリングリストにおける1/f揺らぎとは、この場合、メンバーの発言数の揺らぎである。全てのメンバーが同じように発言するわけでもないし、盛り上がる話題のときは爆発的に発言が増える。この揺らぎ方が1/f的なのだ。 ネットニューズもまた、会議用のシステムであるが、メイルを使うわけではないところと、登録メンバーが不特定多数(つまり、誰でも発言できる)であるところが異なる。ネットニュースでは仮想的な会議室が作られる。会議室での発言はいったん、計算機の上に蓄えられたあと、世界中のマシンに配送される。記事を受け取ったマシンは必要な記事を取り込んで機械の中に蓄えて、誰でも読めるようにする。読者は自分の最寄りのニュースをためているマシンで記事を読むわけだ。記事を蓄えるマシンの記憶容量(具体的にはハードディスク)は限られているから、古い記事は消去して捨てなくてはならない。この、古い記事は捨てる、というやり方を採用すると、記事がたくさん流れてくる時はハードディスクは一杯。全然、記事が流れてこないと、記事が全部捨てられてしまってハードディスクは空っぽ、ということになる。ネットニュースで発見された1/f揺らぎとは、このハードディスクにある時点で蓄えられている記事の量の揺らぎである。インターネットを道に例えるならさしずめ「駐車場の中に止まっている車の台数の揺らぎ」にでもあたるものだろうか。
この現象を発見した東工大の深町氏による、遺伝的アルゴリズムを用いた1/f揺らぎの発生機構の研究は
http://www.phys.titech.ac.jp/uja/href/PAPERS/で見ることができる。
公害
いまから思えば、工業排水を海に垂れ流し、そこでとれる魚を人間が食べればイタイイタイ病や水保病のような公害病が発生するのは自明の様に思えるかもしれないが、当時としてはこれらの病気が工業排水に起因するかどうかというのは真面目な最先端の医療科学のテーマだった。(発生当初に原因が解らなかったからこそ、カドミュウム中毒症とか、有機水銀中毒症、などという名前がつかなかったわけだ。)工場排水が病気の原因であるという説が出たとき、某工場の工場長が「そんなことは絶対無い。なんだったら、毎日排水を私が飲んでもいい」といったと伝えられるが、これは単なる虚勢では無かったかもしれない。工場排水自体は微毒に過ぎず、飲んでも死にはしなかったというのは多分、本当だったのだろう。ただ、それに食物連鎖という自然の摂理が組みあわさったとき、海水⇒プランクトン⇒小型魚類⇒大型魚類⇒人間という食物摂取の過程の中で毒物の濃度が想像を絶するまでに濃くなってしまったのだろう。人間が作ったものを人間が完全に理解できないというのは何も、昨日今日始まったことではない。 もっとも、20代前半より若い読者の方々にはイタイイタイ病や水保病などと言ったって、何のことか解らない方も多いかもしれないが。