僕は当然のことながら「 インターネット」の専門家ではない。だが、大学で計算機を用いた物理学研究にいそしんでいるわけだから、まあ、世間一般の人よりはインターネットに接する機会が割と多かった。初めて国際e-mailを打ったのは1989年、ドイツあてだったが何と、返信が送られてくるのに5日かかった。別に受け手が4日間留守にしていたわけではない。受け手はすぐ返信を送ったのだが、日本とドイツをつなぐ途中の経路が調子が悪かったのである。これでは航空郵便の方が早いではないかとがっかりした覚えがある。 電子メイルを「メイル」=郵便と名付けたのは実に的を得ていたわけだ。
まあ、それでも、うまく行くときはわずか数秒で日本からドイツまでメイルが届く。受け手のドイツ人の教授は面白がって電話代わりに使おうと試みたくらいだ。(ま、うまく行かなかったけど)
そのときの感想としては「こんな便利なものが無料で使えたら郵便事業や通信産業はつぶれるな」ということだった。今でも「電子メイル(あるいはインターネット全体)の費用は誰が払っているのか」という質問はよく聞かれるが、これは逆に言うと「こういうものは課金されて当然である」という暗黙の仮定があるからこそ出てくる疑問である。電子メイルというと電話やファックスの延長で考えがちだからこのような仮定が成立するのだろうが、個人的にはインターネットは電話やファックスの延長で考えるのは間違っていると思っている。それでは、なんだと思えばいいのか?我々の身近にいい例がある。「道」だと思えばいいのだ。その辺の道を歩くのに我々はお金を払う必要は無い。それは我々が日々払っている税金の中から(僕の給料もそこから出ているわけだ。スミマセン)道を作り維持する費用が出ているからだ。インターネットもそうなるべきだ。今はまだ、ごく一部の人しかインターネットを使っていないから税金から費用を出すわけにはいかないが、きたるべき近未来には過半数の人がインターネットを使うようになるだろうから、そうなったら、税金から費用を出して無料でインターネットを使えるようにする。普通の道に車幅制限があったり、有料だが快適で高速の高速道路があったりするのと同じように、インターネットにもあまり大きなファイルを転送してはいけないという「容量制限」のある線や、高速だが特別料金の必要な「高速回線」などが出てくるだろう。そうなると、一体、何が起きるだろうか?
一般にインターネットというと将来的には在宅勤務を助け、地方と中央の格差を無くす、という文脈で語られることが多いが、個人的には逆の意見を持っている。今、家の値段は何で決まっているか?家の品質では無い。どんなに狭くても東京に近ければ高価なのだ。東京=便利なところ=人がいっぱい集まっていて広い道や鉄道があり、便利なところ。インターネットも同じことだ。容量の大きい、高速の回線は現在、人口密度の多いところにまず、敷設されるだろう。人口密度の少ない地方に、高速の大容量回線を敷設するのは費用の無駄だと判断されるだろう。かくして、未来の住宅広告はこうなる。
「10GBPS幹線まで、1GBPS回線敷設済み。専用回線。」
「○○駅バス15分、上下水道完備」の代わりというわけだ。駅までのアクセスの便利さを競うのは結局突き詰めれば、中央=東京へのアクセスの便利さを競う事に他ならないが、それと同じように、太い回線へのアクセスを競うようになるだろう。そうなれば、容量の少ない、遅い線しか敷設されていない地域=地方、の地価は下がってしまうだろう。在宅勤務だって、自宅まで太い回線が引かれていて初めて意味があるわけだが、職場と自宅で同じ速さ/太さの回線が使えるようには絶対ならないと思う。そうなると、結局は太い回線を使うために中央にある会社に出社する羽目になるのではないか。もっとも、東京がその時も中央であるとは限らないけれども。全然、別の場所が中央になっているかもしれない。しかし、これはあくまで近未来の話で、今現在の話ではない。だったら、インターネットを「道」よばわりするのは早計で、現時点ではただのよた話しに過ぎないのだろうか?いや、そうではない。「カガク的」にインターネットの挙動を観察して見るとインターネットはある意味ではすでに「道」の様に振る舞っているのだ。
ここでちょっと、インターネットの技術的な詳細に立ち入らせていただこう。インターネットではパケットという技術を使って通信を実行している。パケットとはもともと小包の意味で、パケット方式を用いた通信では、データは一度に送られるのではなく、細切れの小さなデータの塊に分けられてから送られるのである。この方式では一本の回線を多くのマシンが共有して、データの小さなかけらであるパケットを一本の回線に流すので、混んでいるときは回線が遅く感じられるし、空いているときは早く感じられる。個々のマシンは勝手にパケットを流すわけだから、いつ混んでいていつ空いているかというのはまったくランダムなように思うが、実際には非常に特徴的な揺らぎ方、具体的には 1/f揺らぎというものになっていることが知られている。つまり、ネットワークのどこかに測定装置を置いて、パケットがどのくらいたくさん流れてくるかを調べるとその揺らぎ方が1/f揺らぎになっているのだ。インターネットで1/f揺らぎになっているのは実はパケットの流量だけではなくて、 ネットニューズやメイリングリストの記事の流れも1/f揺らぎになっていることが解ってきた。つまり、インターネットの上を流れているデータの流れ自体が1/f揺らぎになっているのだ。
で、現実の道路での流れ、つまり、交通流の方はどうかというと、これはもう20年くらい昔から1/f揺らぎになっていることが知られている。つまり、インターネット=道、パケット自身やネットニュース,メイリングリストを流れる個々の記事=車、と思えば、その両者の従う法則は同じだということだ。人間はインターネットを道だと思って作ったわけではない。そうした人間の思惑とは別にすでにインターネットは道としてふるまい始めている。人間の作ったものだからといって、人間が全てを理解できるわけではない。インターネットは作るばかりでなくその動力学をまじめに研究しなくてはいけない時期に差し掛かっている。それはかつて、人間が作り上げた産業技術が「 公害 」という形で人間の予想をくつがえすような現象をもたらしたのと良く似ている。(まあ、インターネットで公害が起きる、というのは想像が難しいが)インターネット、それは、我々の生活を変えつつあるという意味でも、また、星の運動や生物の仕組のように科学の対象という意味でも、まさに新しい、それ自身固有の法則を内包する、「世界」なのだ。その中で、人類はどのように生き、進化して行くのだろうか。