生物ノ可能性

生物には「種」がある。ミズクラゲ、とか、イヌ、とか、人間、とかいうのは皆「種」である。でも、よく考えてみると「種」というのは何だかよく解らないものなのだ。今回は分類学の権威、北海道大学理学研究科生物科学専攻教授、 馬渡峻輔教授に「種とは何か」について伺った。

かつて、 リンネは、この世の生物はすべて、階層的な美しい形で分類できる、そして、これこそが、神が作りたもうたこの世の美しい秩序のひとつの現われである、と主張した。それはまた、この世は全て、神の意志にしたがって秩序だっており、時計仕掛けの機械のように整然と動いていると信じることの出来た、幸せな時代の幻想でもあった。
ダーウィン「種の起源」を書いてから、この神の世の平安は打ち破られ、この世は自然淘汰の原理が支配する、無情の論理と、流転生成の渦巻く世界であると分かってしまい、人々の自然を見る目は変わらざるを得なかった


このような歴史の故か、一般に、「種の起源」というと「進化論」を提案し、生物という物の見方に革命を起こした、という点が(そして、その点ばかりが)強調されがちであるが、実際にはダーウィンは「進化」を研究する科学者では無かったし、現在でも「生物の進化」を研究している人、というのが専門家として多数存在するわけではない。ダーウィンは本職の科学者としては、いわゆる「博物学者」であった。本の題名にもあるとおり、ダーウィンが本当に興味を持ったのは「種とは何で、どうやって出来たのか?」と言うことだった。生命科学とかDNAとか進化とかが脚光を浴びる中で「博物学」とか「種」なんていう概念は古臭いと思われがちだが、実際には、「種」とは何か、ということ いろいろな意味で全然解っていないのだ。


そんなにも解っていない「種」の研究が流行らない理由は簡単で「科学っぽく」無いからだ。科学とは長いこと「物理学」の事だった。世界を司る法則を見出し、そして、世界を統一的な原理で説明すること。全ての「科学」はこの科学界の「帝王」というべき物理学にどれほど近いかで順序づけられ、宮廷の階級構造の様に貴賤が決まっていたのだ。だが、これはおかしいのではないか?科学とは「自然を探求する学問」である。別に「法則を見つけだすこと」だけが自然の探求ではないはずだ。法則をみつけること=自然の探求、だなどというのは人間の勝手な思い込みに過ぎない。


今までの科学は数学という道具に合わせて身の丈を決定し、数学的に記述できることだけを研究して来た。しかし、自然界がそんなに単純なものであるという保証はまるでなく、従って、物理科学に代表されるような数理科学ばかりを主流とするのが本当に正しい態度かどうか誰にも解らない。勿論、数理科学は大切だが、物理科学の探求からこぼれ落ちて来た自然の探求もまた、数理科学と同じくらい大切なことではなかろうか。


「種」について研究する分類学は、いままでの数理科学の伝統からは考えれば「亜流」かもしれないが、「自然を探求する」という科学本来の意味からすれば、非常に大切な学問だ。法則性を探求する数理科学は高度な科学技術をもたらし、人類を物質的に豊かにしてくれた。一方、法則性を追求せず、自然の複雑さをそのまま理解して行こうと言う分類学は、数理科学が人間には与えてくれなかった、精神的な豊かさを与えてくれるのかもしれず、そういう意味で、文学や、芸術に近い、人間を高めてくれるような「カガク」になって行けるかもしれない。


今は20世紀が終わりを迎えている。ふりかえればこの世紀は、物理科学を中心とする数理科学の世紀だった。いまから100年後に、21世紀が終わりを迎えた時に、人々は21世紀はどんな科学の世紀だったと思っているのだろうか。やはり、数理科学の世紀が続くのだろうか?それとも、分類学の様な、自然をそのまま理解できる新しい「カガク」の世紀として歴史に残っていくのだろうか?
おまけ
いろいろな意味で全然解っていない
種、は主に二重の意味で解っていない。ひとつは
生物の種を尽くしていない、という不完全さ。もう一つは、種の定義が依然として不明解なままだという点だ。種の研究というと、何か新しい種を発見するする、という点ばかりが強調される。誰にも殆ど関係無いような見たことも聞いた事も無いものの発見に地道を上げている役に立たない学問、というわけだ。しかし、我々人類もその一員である生物の全貌の理解には「法則」の理解、というアプローチでは限界がある。勿論、将来的には 何かの法則が明らかになるのかもしれないが、その前にともか く、[#1-2現実の事例を明らかにしなくてはならない]だろう。生物、というものがどういう可能性を持っているのか、それを全て知り尽くす。つまり、「何が可能であるかを知る事は重要」なのだ。
何か法則
生物学の究極の目的の一つとして、どうして単細胞生物から始まって恐竜や人間の様な複雑な生物になったのか?という問題がある。これについて完全な説明は無いが、主流の理解は
ダーウィンの書いた 種の起源が信じられている。現在の理解では、その後の学問の発展を踏まえて、種が出来た原因として主に次の3つあげている。それは、 自然淘汰 中立進化 Random Drift、である。また、進化、をあつかう学問としては、最近の流行りではドーキンスの「利己的な遺伝子」なんかが有名だ。これらの「法則」が研ぎ済まされていつか生物の種の起源が完全に明らかになる時が来るのかも知れないが、それがまだ遠いかなたの目的に過ぎない。種を分類学的に理解する、というのは、その基礎としても大事なことなのである。
自然淘汰
「自然淘汰」、とは、環境により適したものだけが子孫を残す、という原理のために全ての生物個体は常に少しでもよりよい適応をするように圧力をかけられており、この圧力を「淘汰圧」と呼ぶ。淘汰圧に耐えきれなかった個体は子孫を残せず、そのような個体ばかり集まった種は絶滅していく。と言っても、別に劣っているから絶滅するわけではない。種というのは必ず、絶滅する。未だかつて絶滅しなかった種、というのは存在しないのだ。人間だって、いつかは絶滅するだろう。もっとも、大脳、があるから人間は例外だ、という可能性を完全には否定できない。
中立進化
これは結構、難しい。進化、というのは結局のところ、DNAに書き込まれた遺伝情報の進化に他ならない。ところが、DNAが直接進化するわけではない。あくまで、DNAに書かれた情報が個体の形質として反映し、その結果、適応的な形質を作るようなDNAだけが残っていく。逆に言うと、形質に関係の無い部分はどんどん突然変異を積み重ねて行く事ができるということだ。これが、分子のレベルの進化、分子進化、である。といっても、実際には進化、ではなくて、ただ変化しているだけである。この分子進化は自然淘汰とは無関係である。いわば、淘汰圧に対して”中立”なのである。このような、自然淘汰にかからない形質が進化(正確には変化)することが中立進化である。それでも、中立進化がたくさん積み重なればいつかは別の種と思えるような形態変化へと結び付くかもしれない。そうなれば、これは「淘汰」とは無関係な種の創出、になる。
Random Drift
人間は「種」だが、個々の人間は個性を持っている。性格や能力はもとより、髪の色、目の色、肌の色、なども多様である。さて、ここでもし、自然淘汰とは無関係に偶発的な理由で人間の数がぐっと減ってしまったとしよう。そうなると、人間が持っている多様性のいくつかは失われてしまう可能性が高い。例えば、目の青い人、がたまたま、いなくなってしまうかもしれない。そうなると、人間という「種」が持っていた可能性のいくつか失われて、たとえ、再び人間の数がもとに戻っても、「青い目」の人は(再び、突然変異でもなければ)二度と現われないかもしれない。このような偶然の選別で種の形質が変化することをRandom Driftと呼んでいる。特に、遺伝的形質のrandomなdriftを特にgeneric drift、つまり、遺伝的浮動、と呼ぶ。自然淘汰、中立進化、Random Driftは全て別々の種創出の原因である。
基礎としても大事なこと
生物学で何か研究しようと思ったら、まず、目的を定めないといけない。サルの研究、とか、カニの研究、とか。その「目的」をとりあえず、限定するのが分類学である。何らかの分類が無ければ研究が始まらないのは言うまでもない。従って、分類学は生物学の出発点だとも言える。もっとも、分類は絶対的なものではなく、種々の研究の進展に伴って、変わって行く。勿論、サルだと思っていたのがイヌだったりすることは無いわけだが、一つの種類だと思っていたものが研究が進んで見たら、実は別の二種だったり、別々の種だと思っていたものが、
実は同じ種だったりすることは研究の進展とともに起こりうる。そういう意味では、分類学は生物学の出発点と同時にゴールでもあるわけだ。分類学の体系は大きく分けて、タクサ学、系統学、体系学である。そして、この3つが三位一体となって生物学の他の分野(生態学とか行動学とか)とやり取りすることにより「生物学」という体系が進歩していく。タクサ学は、要するに、種の記載、である。知られざる種を発見して 記載していく。系統学は記載された種の系統関係を調べる学問。簡単に言えば、両生類は魚から進化した、とか、鳥類は恐竜の末裔だ、とかそういうことを議論する。そして、最後の体系学は、系統学の議論を一般化し、「客観的な」基準で系統関係を議論できる一般規則を構築する。実際には、これら3つは互いに相補関係にあり、系統学のレベルから種分類のやり方にクレームがついたり、体系学のレベルから系統学に注文が出たりすることもある。これなんかは、系統学からタクサ学へのクレームの例だろう。
記載
そんなことに何の意味があるのか?
一億の種が全部解ったからと言っても何の役にも立たない、メジャーなところだけ解ればいいじゃないか、と思うかもしれないが、結構そうでもない。メジャーなところだけ解ればいい、という考え方の裏には、小さくて目にみえない様な生き物を詳しく調べても意味が無い、下等な生物なんて皆、単純だ、という先入観があると思う。その反例は無限にあるが、一つだけ例を上げておこう。コナダニ、というダニの一種がいる。とても小さな種類で、体調0.1ミリ以下、とかだ。ところが、これには無数の種類があり、何百種もあると思われているが、種が解っているのはごく一部。そんなに種類があっても、どうせ、些細な違いだろう、と思うかもしれないが、それぞれの種の形態の違いと来たら、馬と人間とティラノサウルスの違いなど問題にならないほど多様だ。デザインだって、人間が考える怪獣顔負けで、そのまま大きくしてウルトラマン・ティアガと戦わせても少しもおかしくないような物ばかりだ。小さくて目にみえない、とるに足らない生物の様にみえても多様さ、という点では、我々のスケールの世界に何等劣る事はない。生命とは何か、をまじめに考えるなら、この多様さが大事でないとはとても思えない。必ず、理由があって、複雑な形をしているはずだ。だからこそ、小さくてとるに足らない生命であっても無視して生命を議論することは決して出来ない。分類学が本質的に大切であることの由来である。
実は同じ種だったり
有名なところではバッタの例がある。バッタ、と言っても特別なものではなく、ごく普通のトノサマバッタの話だ。属に「イナゴの大群」とよばれているものがある。これは多数の空飛ぶバッタが飛来して、木も草も丸裸になるほど食べ尽くしてしまう、という災害のことだ。長い間、この「イナゴの大群」は何か特別な種類のバッタが、周期的に大発生するのだと思われていた。体の色や構造が、トノサマバッタとあまりにも違うからだ。現在では、この「イナゴの大群」はトノサマバッタの特別な形態に過ぎないと言うことが解っている。何らかの条件で、突然、体色も体の構造も全然違う「子」が生まれ始める。例えば、普通のトノサマバッタを多数個体せまいところにとじこめて飼育するとその子孫は体が小型で色が黒く、陰険な形相をした「イナゴの大群」の一員へと変化する。人口密度の高い都会に住む人間の形相が一様に険悪なのはバッタと同じ原理によるのかもしれない。
しかし、この「イナゴの大群」の子孫はまた、普通のトノサマバッタになったりする。この場合、詳しい研究をする前に、「イナゴの大群」と「トノサマバッタ」が同じものだと言うことを知ることは不可能だ。まず、トノサマバッタと、「イナゴの大群」は別の種だ、という分類をしてから、研究を始め、研究の結果、実は同じだと言う情報が分類学にフィードバックされる。生物学はこういう形で、「分類学に始まり、分類学に終る」と言う段階を経て徐々に進歩して行く。
生命科学とかDNAとか進化とかが脚光を浴びたとしても、所詮は分類学を軸にした生物学全体の大きな流れの中の一過程に過ぎない。

現実の事例を明らかにしなくてはならない
近代物理学の祖、ともいうべきニュートンの力学は、今でこそ、その美しさが称えられるが、発表当時のインパクトとしては、天界の法則を解明した点にこそ、その最大の部分があった。実際、ニュートンの力学を体系的に記述した有名な書物、プリンピキア、では、「世界大系」題する章で星の運行が大きく扱われている。さて、ニュートンの力学が星の運行を正しく表しているということを言うためにはそれに先立つケプラーによる星の運行に関する諸法則が必要だった。そして、ケプラーの諸法則はティコ・ブラーエによる精密な天体観測が無くては成立し得なかった。それ以前の粗い観測では天動説に基づくプトレマイオスの宇宙像でもなんとかつじつまが合わせられたのだ。原理の解明の前には法則が、法則の確率の前には観測が必要だ。それと同じ様に、種を全て発見し尽くすと言うことは、それ以後の理解の発展の為にも重要なのだ。
生物の種を尽くしていない
日本人の人口は大体、一億二千万人ほどである。さて、ここで、日本のことを見たことも聞いた事もない無い異邦人(宇宙人とか、外国人)がいたとしよう。そして、「日本人とは何か」を研究したとしよう。その時、もし、その異邦人が札幌に住んでいる人「だけ」を調べて、「日本人とはこういうものだ」というレポートを作って(宇宙中とか、世界中とかに)流布したらどうなるだろうか?はっきり言って、そのようなレポートは偏った内容の物であり、真実を反映していようが無く、大多数の(札幌市民ではない)日本人にとっては、そんな内容のレポートが出まわって「日本人とはこういうものだ」という先入観が広く流布したら
迷惑この上無いだろう。ところが、殆どこれと同じ事をやっている学問がある。それが「生物学」だ。生物には一説によると一億種の種があると言われているが実際に見つかっているのはわずかに150万種ほどである。札幌の人口は200万人以下だから、現状の知識で「生物とは何か」を語るのは札幌市民だけみて日本人の定義をするにも等しい。いや、もっと悪いかもしれない。札幌市民なら、一応、日本全国の出身者が含まれているかもしれないし、収入の高い人、低い人、いろいろな職業の人が含まれているかもしれないから、それなりに日本人全体の代表としてバランスが取れているかもしれない。ところが、今、解っている150万種、というのは、ありていに言って「個体数の多い、目立つ種」ということだから、いわば、日本人全体の中から、有名でお金持ちの人ばかり200万人くらい選んで来て「これが日本人の代表です」と言っているのにも等しいことだ。これでは、札幌市民を代表とするよりよっぽど歪んだ結果になるだろう。だから、生物を本当に理解したい、と思ったら、「150万種も解っていれば十分だ」なんてことは絶対にないのだ。種を全部知りたい、という分類学はそういう意味でも大変大切な学問なのだ。
迷惑この上無いだろう。
つまり、「日本人は必ず毎年二月に雪像を作ってお祝いする」とか「雪下ろしで毎年○人死亡する」とか「日本の都市は道路が東西南北にきれいに並んでおり、北×条、とかいう名前がついている」とかいうことになり、これが「日本人全体の」特徴として広く流布したりするわけだ。これらは、例えば、那覇市の住人にとっては、ほとんど、何の意味も無い「特徴づけ」である。
種の定義が依然として不明解なまま
「種の定義が不明解ってどういうこと?サルはサルだし、ウマはウマだろう。どこにも不明解さなんて無いじゃないか」と思うかもしれないが、世の中そう単純じゃない。例えば、我々はウシとウマとサルを考えたら、ウシとウマが近くてサルがそれらから遠い、と思うだろう。こういうことのくり返しで人間が「これ以上分けられない」と思うグループが出来るとこれが「種」になる、これがもともとの「種」の定義である。ところが、最近の遺伝子解析技術の進歩により、現存の生物のDNAを全て調べれば、どの生物とどの生物がお互いに類縁関係にあって、どれくらい前に種として分岐したかを調べられるようになった。その原理は簡単で、親から子、子から孫、へと行くに従って、遺伝子の相関が薄くなっていく。そこで、どれくらい遺伝子が似ているか、を調べるだけで、ある種とある種が、従兄程度なのか兄弟並みの近さなのか、あるいは、遠い親戚に過ぎないのか、が解るようになってしまった。こういう情報が解るようになると見た目で「種」を分けるのではなくて、親戚関係の近さで分類した方がいいのでは、という意見が出て来たりする。実際、親子だって顔が似ていなくて、一方、他人の空似、と言うようにあかの他人でも似ていたりすることはあるから、「見た目」で「種」を分けると、本当は親戚関係がすごく薄いもの同士を、同じ「種」に分類してしまいかねない。それより、遺伝子をきちっと調べて、「合理的」な分類をした方がしっかりとした「種」の定義が出来る、というわけだ。確かにDNAを使えば、「客観的な」分類は出来るだろう。しかし、その代わり、人間が見た目で同じ仲間だと分けていたものが全然違う仲間だったりすることになったりする。それは例えば、子供のころから性格も顔も自分に似ていると思っていた父親が、じつはあかの他人だったとおとなになってから知らされるような衝撃だ。論理的に整合的で客観的な基準を作ろうとするあまり、「種」の元々の動機、つまり、「人間が自然を理解するための分類」という目的がどこかに行ってしまうかもしれない。人間は論理的で整合的な体系を作るために生きているのではなくて、自分の身の回りの自然を理解したい、と思って生きているのだ。人間の直感と反した客観的な基準を作ったとしても、それは自然の「理解」には結び付かないだろう。逆に言えば、「人間による理解」を「論理性」より優先して来たことに分類学がはやらない元凶もある。20世紀の主流の物理科学は数理科学であり、数式、というこれ以上は無いくらい「客観的」な道具で作られた学問だからだ。しかし、それで、本当に自然を「理解」できるのだろうか?それが分類学から物理学への問いかけである。「論理」、より「人間」、の方が、ひょっとしたら大事かもしれない。
生命科学とかDNAとか進化とかが脚光を浴びる
生命科学とか、DNAとか、進化とか、が、脚光を浴びる理由は単純だ。既存の物理科学に近いからだ。20世紀の物理学は物質は全て原子の集まりであることをしめし、次に原子が電子と原子核で出来ていることを示し、更に原子核が中性子と陽子で出来ていることを示し....というように小さいほうへ小さいほうへと学問を進めて来た。それは、物質を作っている「単位」が理解できれば物質も理解できる、と思ったからだ。DNAを読んで生物を理解する、というのは、この物理科学の伝統にぴったりマッチしている。DNAの上に書かれている遺伝情報は客観的な「事実」であり、また、生物の全てが書かれている、いわば「生物の単位」ともいうべき存在だからだ。生命科学、とか、DNA、というのは20世紀の物理科学の繁栄の裏で、二流の科学としてしいたげられて来た生物学が一気に主流になるチャンスなのだ。しかし、それで、本当にいいのだろうか?もし、DNAの研究をすれば生命が解る、というなら、今まで生物学がやって来たことは、「DNAが発見されるまでの長い前奏曲」に過ぎず、今や、捨て去っていいような物なのだろうか。そうではないだろう。物理科学が行き詰まりつつあるからこそ、生物学は独自の道を主張しなくてはならない。ここで主流になるために物理学のまねをしてしまったら、生物学は物理学の亜流になってしまい、物理学が行き詰まったのと同じ理由でいつか行き詰まるだろう。そして、生物学が主張すべき独自の道はまさに、分類学の様な物理科学の理解できない部分にこそあると思う。
リンネ
Carl von Linne,[1707-1778]
スェーデン人。現在の分類学における命名は、彼の命名に基づき、新しいものを加えて行ったものである。同時に、科、目、類、種、という階層的な分類体系をまがりなりにも完成させた人物である。もっとも、晩年には「最初は数種の種がいて交雑により種の数が増えた」という理論を展開していたようである。これも「進化」の一形態と呼べないこともない。
http://www.systbot.uu.se/additions/linneaus.html
ダーウィン
Charles Darwin,[1809 -1882]
英国人。有名な
「種の起源」を刊行して生命観に大きな衝撃を与えた。彼の考えた進化の理論は様々な修正を受けながらも現代でも依然として主流の考え方である。この150年間の科学や生物学の進歩を思うと、この長い間有効であり続ける理論を考えたと言うことは実にすごいことだと思う。
http://www.lucidcafe.com/lucidcafe/library/96feb/darwin.html
「種の起源」

ダーウィンが1859年に刊行した「生物にはなぜ、種があるのか」ということに関する革命的な理論、進化論、を提示した書物。ただ、事実を言えば、生命が「進化」によって生じた、と思っていたのはダーウィンが初めてではないし、また、化石記録から種が不変ではないことは既に周知の事実だった。その意味ではダーウィンの功績は単に「進化」という概念を提示したことにあるわけではない。大事だったのは、まず、「自然淘汰」という概念の導入。あるいは、適者生存。この考え方で種がなぜ進化するかを説明した。それまでは、種がなぜ進化するのか良く解らず、漠然と「下等動物から高等動物へ」と進化するのだと思われていたりした。ダーウィンはこの点を自然淘汰と言う冷徹な原理で説明した。これによれば、優れたものが生き残るわけでもないし、「善」が生き残ることが保証されているわけでもない。後から出現した生命が優れているとも言えない。単に、その時点でもっとも環境に適応したものが多く子孫を残す、ただそれだけである。これは、人間を特別なもの、優れたもの、どんどん高度になっていく生命の頂点に立つもの、と理解したい人間の根本の欲求に抵触したたため、強い批判を引き起こした。この点は、最近の
利己的な遺伝子、に対する反発とも一脈通じるものがあろう。もう一つ大切な主張は、生命がすべて例外無く、進化の結果作られた、と主張したことだ。生命には例外は無い。この考え方は メンデルの遺伝の法則 DNAの発見などにより、強化され今ではより強固なものになっている。いずれにせよ、ダーウィンによって初めて「生物」と言うものを羅列的ではなく、統一的に理解する枠組が与えられたわけだ。つまり、「統一的な原理」の導入である。自身、博物学者であったダーウィンの功績でかえって博物学の地位がおとしめられてしまったというのは実に皮肉な話だとも言える。もし、ダーウィンの進化論が無ければ、生物を統一的にみる枠組は存在せず、したがって、種を羅列的に記載する「だけ」だと言う理由で分類学がさげすまれることもなかっただろうに。まあ、簡単にいえば、進化論、は法則を追求する物理科学を中心とする20世紀の主流の科学とよくマッチしている。また、マッチしていたからこそ、盛んになり、現在まで生き残ったと言えるだろう、ちょっと、ひねくれたみかたではあるが。
メンデルの遺伝の法則
中学か高校の教科書に書いてあるので、なんとなく聞いた覚えのある人も多いだろう。メンデルはソラマメを交配させて親の形質がどのように子に受け継がれるか、を研究し、子は両親の形質のうちどちらかをランダムに受け継ぐ、また、個々の形質は独立で、例えば豆にしわがよっているか、ということと、色が黄色かと言うことはお互いに無関係に遺伝する、しかし、連鎖して遺伝する形質もある、ということを見つけた。いわゆる「遺伝子」の発見である。この理論はその後
DNAが発見されたことにより、真実であることが確認された。
利己的な遺伝子
ドーキンスによって提案された過激な進化論の一種(「利己的な遺伝子」紀伊国屋書店、ドーキンス著、2800円、1991年)。通常の進化論では「自然淘汰」を受けるのは「個体」であるが、ドーキンスはこれを「遺伝子」であると置き換えた。つまり、種が絶滅しても種が持っている遺伝子が次世代の新たな種で生き残ればそれでいいし、また、遺伝子はその様に行動する、という説。つまり、例えば、人類が滅亡しても次の「超人類」が「青い目」を持っていれば「青い目」の遺伝子は生き残ったので、「青い目」遺伝子にとってはそれでOK、という説。いうまでも無いが、この説がブームになったのも20世紀の物理科学的な科学観のおかげであろう。複雑で多様な生物を理解するよりも、「利己的な遺伝子」という単一の原理で全てを理解する、という方が20世紀型の科学イデオロギーとマッチしている。
グールド何かはこういうところが嫌いなんじゃないだろうか。この説は、「利己的な遺伝子」という命名のせいか「人間は本来利己的なものであり、それは遺伝子のせいであり、本人には責任が無い」とかいう間違った解釈をされてしまっているが、実際には「利己的な遺伝子」理論の真骨頂は 「利他的な行動」を説明できる、という点にこそある。ダーウィンの進化論も弱肉強食を正当化する、つまり、社会的に権力の強いものが弱いものを迫害するのは自然の法則にかなっている、とか、同じ人間でも白人が一番「進化」しているので有色人種を「淘汰」しても構わない、とか、言うふうにねじ曲げて理解され、いろいろ誤解をよんだ。そういう点はよく似ていると言える。ダーウィンもドーキンスもそんなことは一言も言っていない。
「利他的な行動」を説明できる
利他的な行動、とは、自分自身には不利になるが、周囲の個体には有利になるような行動。まあ、平たく言って、「他人に親切にする」ことは全て利他的行動である。自然淘汰、が厳密に働くとすれば、他人を助けるより、自分の利益だけはかって利己的に生きるものが残るはずなので、「親切な」個体、は絶滅しているはずなのだ。にも関わらず、現実に「親切」がありうる。他人に親切にすると、我々も気持ちがいい。この様な感情を進化と自然淘汰の理論からどう説明するか、が問題になった。一つの説は、淘汰は個体単位でなく、「種」全体に対して働く、ので同種のメンバーに利益があるようにすれば、種を絶滅から救えるので、多少、自分が不利になっても、利他的に行動した方が種のためになるので、自然淘汰で利他的な行動をする種の方が利己的な行動をする種より生き残りやすい、とか言う説だ。これはまあ、最もらしいが、個々の個体がこの様な原理で行動していると言う直接の証拠が乏しくて今は廃れている。ドーキンスの「利己的な遺伝子」説は、この命名とは裏腹に「利他的な行動」を部分的に説明できる。「利他的な行動」の典型例は蜜蜂である。蜜蜂の働きバチは不妊のメス、である。つまり、彼女達は直径の子孫を持たない。では、彼女達は何を目的に活動しているのか?大体、不妊のメス、などと言うものは進化の過程で淘汰されてしかるべきだ。子孫を持たず、他人の(具体的には女王バチの子ども)世話ばかりしている存在がなぜ、自然淘汰されないのか?進化的にみたら彼女達のやっていることは完全に「利他的」である。この説明はややこしい。それでも知りたいと言う人は
ここ

ここ
「他人、と言ったって、女王バチの子どもは自分の姉妹じゃないか。完全に他人じゃないよ」と思うかも知れないが、そうではない。働きバチは、「自分が子どもを生める可能性を否定してまで」姉妹の世話をしているのだ。人間で言えば、自分の子どもを殺して、姉妹の世話ばかりしているのに等しい。そういう比較であれば、彼女達のやっていることは十分に「利他的」な行為である。一見、女王バチの子孫の繁栄のみに貢献していて、自分の子孫を全然作ろうとしていないかのように見える。ところが、じつはそうではない。ある特別な理由により、働きバチ達が父親からもらう遺伝子は全く同じなのだ。これは通常の場合の両親から
ランダムに半分ずつ遺伝子をもらう場合とは異なるのだ。その結果、姉妹はお互いに少なくとも50パーセントは遺伝子が完全に一致することになる。更に母親を共有しているので、母親の遺伝子の半分を共有する。その結果、姉妹同士の近親度は合計で75パーセントになる。通常の親子関係では50パーセントしか遺伝子を共有できないから、真に「利己的な遺伝子」、つまり、なるべく自分の複製をいっぱい残したい、と思う遺伝子にとっては、自分で子を生むより、姉妹を作った方が有利だということになる。一見、「利他的」に見える働きバチの行動は十分に「利己的」であるという説明ができる。これが「利己的な遺伝子」理論による、「利他的な行動」の説明である。
グールド
ナショナル・ヒストリー・マガジンに毎月、進化をめぐる科学エッセイを連載している博物学者。和訳もあって、最近は安い文庫版も手に入る。(「ダーウィン以来」「パンダの親指(上・下)」いずれもハヤカワNF文庫)ドーキンスは博物学者として進化を論じると言う意味では、もっとも正統的なダーウィンの後継者である。まさに博物学者の見本の様に博覧強記で、広い知識を絶妙の文才でおもしろく紹介してくれる。博物学者だけに、ドーキンスの様に「遺伝子レベルの進化」を論じると言う20世紀版の堕落を耳にすると「毛が逆立つ」そうである。彼は遺伝子の進化も集団の進化も信じない。ただ、目の前に実際にある、個々の個体の多彩な生き様を通してのみ、進化を語る。そういう意味では典型的な「分類学者」的科学者と言えよう。

MacCladeで進化を追体験しよう!
進化の追体験ソフト、MacCladeのデモ版でちょっと遊んで見よう。まず、MacClade 3 Demoのフォルダーをくりっくして開く。次にVertebratesというファイルをクリックしよう。なんだか「樹」のような絵が描かれた画面が出てきただろう。これが「進化の系統樹」である。時間は下から上に向かって流れており、「樹」の梢に現在生きているいくつかの「種」が描かれている。英語なのでよく解らない(僕も解らない)が、左から順に、何かの魚、山椒魚、蛇、ワニ、哺乳類、とかげ、カメ、蛙、鳥、肺魚、だ。この樹を見ると各々の生物がいつ分かれたか、つまり、どのくらい戻ると共通の祖先を持っているか、を表わしている。この図によれば、哺乳類は、鳥よりもカメに近い、と言うのだから恐れ入る。つぎにコマンドキー+D(またはTraceの中のTrace Characterを選ぶ)を押して見よう。すると樹に色がつく。樹に付いた色はいろいろな形質がどこで分岐したかを表わしている。また、画面右下に小さなウィンドウが現われたはずだが、このウィンドウが色が示す形質の説明だ。最初に現われるのがamnionで、これは羊膜、である。羊膜、は胎児(卵生なら、卵の中の幼体)をつつむ膜で、これがabsent(無い)のが黄色で、present(ある)のが青だ。これをみると羊膜、というのは、進化の途中で三回独立に現われたということが解る。次に、右下の新しく現われた小さなウィンドウのスクロールバーを使って、ウィンドウをスクロールしてみよう。樹の色がいろいろ変わる。これは各々、様々な形質がどのように進化したかを表わしている。二画面目はひれ、足、つばさ、不明、多義(?)の進化の様子。あともこの調子だ。スクロールするとウィンドウのタイトルに何の形質かが、表示され、形質の種類を表わす色の説明がウィンドウに現われる。英語なのが残念だが進化を追体験して欲しい。Marsupial Wolf (Variable)というファイルは見ためではなくてDNAで分類した狼(?)の分類。いったん、MacCladeを終了して、ファイルをクリックしよう。今度は樹が現われないので、コマンドキー+T(または、DISPLAYでGo to Tree Windowを選ぶ)で、樹を出そう。あとは、さっきと同じだ。でも、今度は形質が見ためではなくてDNA上の塩基配列の記号、ACGTだから無味乾燥だけど。最後に注意。これはあくまで「ここで対象にした形質を考慮した」場合の系統樹だ。現実にこういう進化が起きたかどうかは別問題なので気を付けて欲しい。