〔学会報告〕

日本物理学会 第56回年次大会 物理教育分科(日本物理教育学会と共催)

    招待講演:21世紀に必要とされる人材を育成するための提言
    物理教育シンポジウム:大学基礎物理と高校物理の接続を考える
                      ―大学側と高校側からの提言―

      田 中 忠 芳 鹿児島高等予備校,890‐0051 鹿児島市高麗町15‐10

2001年3月27〜30日,中央大学多摩校舎で開催された日本物理学会第56回年次大会において,3月30日,標記の主題でそれぞれ招待講演ならびに物理教育シンポジウムが開催された。招待講演では,教育改革国民会議第3部会から四方義啓氏(名城大理工)を招待し,講演いただいた。物理教育シンポジウムでは,北原和夫氏(ICU),覧具博義氏(農工大工),兵頭俊夫氏(東大院総合),鈴木 亨氏(筑波大附高)に,大学側と高校側の立場からそれぞれ講演いただいた。講演後の質疑応答はいずれも活発に意見交換が行われた。総合討論では,講演内容を踏まえ,物理教育・理科教育の改善へ向けて積極的な意見交換が行われた。


招 待 講 演

 座長:小林昭三(新潟大教育人間)

 教育改革国民会議第3部会で,21世紀に必要とされる人材の育成に関してご討議してこられた,四方義啓先生にご講演いただく。

21世紀に必要とされる人材を育成するための提言
 四方義啓(名城大理工)

 本来ならば,木村孟先生がご講演・ご討論されるはずなのだが,木村先生がたいへんお忙しいということで,私が代役をつとめることになったことをご了承いただきたい。
 我々は,学問における「レーダー」を備え,そして教育においては,その「レーダー」をつくる必要がある。より高度な能力が要求され,備わっている能力との間にギャップが生じた場合,それを補うためにPower AssistおよびIntelligent Assistが必要になる。それが科学技術であり学問ではないか。
 要求される能力とその現実との差があまりなかった時代は古きよき時代であった。その後,工業化社会(真空管の時代)になるとその差は少し大きくなったが,まだこの差は学校の勉強でなんとか埋合せることができた。それが中期工業社会(トランジスターの時代)になると,大学の専門を学ばないと簡単には埋合せることができなくなってきた。その後,ICやLSIの時代になると,要求される能力との差が学校教育では簡単に埋められないほどに大きくなってきた。21世紀は,それがもっと拡大すると予想される。それを埋めるためには,学問に対する大まかな見方を与える「地図」がどうしても必要になる。そのことによって自分が進むべき道を発見することが可能になる。学問の「地図」は大学の一般教養で十分ではないかという意見もあるかもしれないが,そうではない。また,細分化された専門でもない。研究の成果を教育の場に還元していくような,これまで日本になかった新しいブランチをつくる必要がある。そうすることで次の世代を担う創造性は育まれる。
 なぜ,sinやcos は中学校,高校,大学で繰り返し学ぶのだろうか。実は,sin, cosは応用技術と密接に関っている。三角比はピラミッドの測量のためという説明もあるが,距離計やレンズの設計における技術の基礎であった。三角関数ではその3要素(振幅A,周波数F,位相P)にふれられるが,それはNTSC方式のカラーテレビやFMやAMラジオなどの伝送に深く関わっている。大学では三角級数としてsin,cos が再び登場するが,これを「MiniDisc」にうまく利用したのは日本の企業である。このように,sin,cosをはじめとする特殊関数はいろいろな役目を果たし得るものであるというような「地図」を,一人一人が持つ必要がある。しかも,我々は,子どもたちにその「地図」を与えることのできるところにいる。
 今の子どもたちは,細分化された知識に対する危機感を本能的に感じているのではないか。「入試に必要だから覚えなさい」といったふうに,考えることよりも覚えることを強いられ,本当に考えることを教わっていない場合が少なくないのではないか。
 また,大学ならびに教育を変えたとしても社会全体が変わるまでには隔たりがある。例えば,会社の人事の仕組みを変えるなど,我々は社会に対してもっと働きかけていく必要がある。
 我々の持っている能力と要求される能力とのギャップを,現代科学技術を持ってしても埋めることのできないのが21世紀であろう。その隔たりを埋めるためのpowerやintelligence を動かすenergyが大きくなりすぎたときに,自ずと拒否反応が生じ,そのどれを選択するかが適切に行えなければ,我々は次の世代を生き残れない。とすれば,どこかで選択を余儀なくされる。そのとき,学問の方向決定をする際に,「レーダー」が役立つだろう。また,社会に対しても,「レーダー」を備え「地図」を持つことがどれほど大事であるかを知らせる必要がある。より大きな「地図」の上で自分たちの位置付けをし,その上で未来を見通し,進む方向付けをする。これが現在最も欠けている事柄ではないか。また,我々はそうすることで,世界一の技術力を発揮する場をつくることができる。

討 論
○:学問に対する目的意識が欠如しており,強い日本もしくは日本人をつくる必要があるということだと思うが。
四方:強さはどこかで必要になる。強さには近接戦で強いのと,戦略を立てて強いのとあると思う。近接戦では日本はほぼ最強ではないか。
○:しかし,生物の分野では,ゲノムの解読はアメリカに先を越された。
四方:ゲノムに関しては,日本は本格的に取り組むphaseが遅れたのではないかと思う。投入する予算も違った。アメリカで有名になってからそれについていったのでは,それを追い越せない。「レーダー」が弱かったのでは。
○:国家的見地で人を採用するように働きかけるというが,企業は利益を追求する集団なので,それに役立つ人を採る。企業に対してあまり働きかけはできないのではないか。
四方:バブルの頃に,採用する学生について人事関係の人に働きかけたこともあり,こういう働きかけは可能だと思う。戦略的に人事部の地位が低いのは問題ではないか。
○:どこにも「地図」や「レーダー」がないというのが普通ではないか。
四方:本当の創造というのは「地図」の中にはない。また「地図」なしに旅をすることも不可能。昔の地図は北極が真っ白だった。これは「地図」を見ないと知りえない。
○:基礎分野の人は「地図」のないところに「地図」をつくり,応用分野の人はその「地図」をもらってさらに発展させるという分業関係では。
○:科学の成功例を教育で教えるといえば,つい伝記とか科学史になってしまうのではないか。それよりも数学や物理を教えた方が中身として意味があると思う。
四方:確かに,うっかりすると伝記や科学史に受け取られかねない。科学史では各phaseしか教えないが,数学・科学・技術・社会・人間をひとまとめの存在であることを認識し,それを取り扱う必要がある。メゾスコピックなところで,さらに「圧縮」されたところを扱うべき。
○:例えば,F=maの意味を納得するといったことは,その方法でできるのか。
四方:するしかない。馬は水を飲ますのは難しいというが,いまは水を飲むところまで連れて来てもいないのではないか。先ほど「圧縮」という言葉を使ったが,たくさんのばらばらな情報を一つの公式のような小さいところに「圧縮」することが,学問の一つの要諦であろう。
○:「考える」という習慣のない学生が増えており,「地図」があっても,それをどう見たらいいかわからない。中学・高校で「考える」ということをどう教えるか。生徒・学生がどういうことを知らないかを知った上で教えなければならない。また,数学と物理に関るところで,論理を教えるためにプログラミング言語をもっと扱ったほうがいい。
○:テクノロジーを学生の興味の原動力にすると,興味を持つものもでてくるが,「自分は使えるからつくる事に関してはわからなくていい」と使う側にまわるのを助長する可能性はないか。物理教育はもっと素朴なところから始めるのがいいと思う。
四方:テクノロジーは子どもには結構受けるので引用した。「先生方はこうあるべき」という学問をつくる立場と,「子ども達にはこう教えるべき」という学問を伝える立場とを区別すべきである。
○:何のための「地図」か。何のための「レーダー」か。21世紀は20世紀とは違う「地図」がいるのではないか。先生自身21世紀の科学の専門家と市民に対して,また社会に対して,どういう「地図」を持っておられるのか。
四方:21世紀は要求される能力との隔たりが拡大する一方で,それを維持するためのenergyの限界が見えてくる。その結果,厳しい選択を迫られ,そのために知恵が必要になる。子ども達の探究心はできるだけ伸ばし,自分達で「地図」をつくらせたいが,それに対して何らかの制限が付け加えられざるをえない時代が21世紀であると思う。
○:21世紀が要求する能力とは何か。21世紀に物理学者が要求されている能力とは。
○:国が行おうとしていることと,実際の教育関係者が考えていることとがうまく繋がらない。理念はいいが,教育改善をどういう施策で実現させていくのかが見えてこない。国の施策に関っている人とのチャンネルを増やし,教育現場の声が繋がるような工夫がもっと必要なのではないか。例えば,創造性を教育することはとても大事だが,国が創造性教育を実施するようにいうと,一斉に「創造性教育カリキュラム」と称するものがでてくる。創造性教育は,現場で地道に国語や算数・数学などを通じて行われるべきものであると思う。50人の教室で個性教育をやれといってもそれは無理。本当にいい教育をしようと思えば,いい教師をたくさん作って(教師の資質はきわめて重要なので),個性の見える適正規模のクラスで教育を行うというのが原則である。もっと政策的な議論も必要なのではないか。現場には熱気が満ち溢れている。
四方:おっしゃるとおりで,学問を作ることも大事だが教員養成の改革も大事である。このような新しいチャンネルをつくり,新しい学問分野をつくる必要があると思う。先生方のお力を借りて,今後,改革をすすめていく必要がある。


物理教育シンポジウム

大学基礎物理と高校物理の接続を考える 
―大学側と高校側からの提言―

 座長:〔前半〕小林昭三(新潟大教育人間) 
     〔後半〕田中忠芳(鹿児島高等予備校)

1.リベラルアーツ教育における物理学
 北原和夫(ICU)

 リベラルアーツとは,「自由人のアーツ」,「自由を獲得するための術」である。「自由」とは「prejudice(偏見というよりは先入観)からの自由」である。教育の現場では「自分の頭で考えて,実体・本物に触れる」というのがリベラルアーツ教育であり,「教養教育(Liberal Arts)」≠「一般教育科目」である。つまり,一般教育科目の物理学は,物理を将来専門としない学生のための物理の授業であり文系学生向けであるのに対して,リベラルアーツにおける物理学は,リベラルアーツが自由を獲得するための術とすれば,本来は学生の専門性によらないものである。
 ICUでは,リベラルアーツ教育を1年から4年さらには大学院まで含めて考えている。1年次の一般教育科目では,双方向対話式でComment sheetを利用して学生の意見を引き出すように心がけている。参加学生は文理区別していない。「英語教育プログラム(ELP)」=「修辞学」を徹底して行い,「物理学」は教えない。2年次ではELPの成果を引き継ぎ,「物理学」は英語の教科書を用いる。3年次からのゼミは,2年次の終わりに学生のイニシアティブでテーマを提案し,教員と学生が相談して具体的な計画を立てる。講義だけに限らず,教員の研究室に出入りして実験をするということもある。新カリキュラムにおける4年次の「特論」(Topics in Physics)は,学生の関心を考慮して毎年分野を決めることにしている。このように,カリキュラムの決定の中に,学生の意向を盛り込む要素を入れてある。
 リベラルアーツ教育はQuestion-orientedであり,専門教育はSkill-orientedである。とはいっても,ある程度のskillの習熟なくしてquestionはありえない。逆説的ではあるが,技術から自由になるためにskillが必要である。
 「ゆとり」教育の問題点:ある程度のskillなくして,動機付け・興味・理解はありえない。
 大学教育は自由だ!教養課程→専門教育→卒業研究という流れをすべての学生に均しく課す必要はないのではないか。1年生から研究室を出入りする学生はいるし,授業外でも対話がある。そのためにはインフラの整備が必要である。
結論:@我々は,個々の学生が見えているか。
A4年間の年次進行的カリキュラムに縛られることなく,個々の学生の変化に対応できるか。
Bリベラルアーツは大学の教育全体の思想的枠組みである。リベラルアーツの物理教育は,物理学教員が単独で努力しただけでは機能しない。英語教育(ELP)等の自己表現・対話の訓練と連携して初めて可能となる。
 また,「式は使わないけれども頭は使う」授業を実践している。数式ではごまかせても論理ではごまかせないこともある。

質疑応答
○:物理にくる学生はコース分けされているのか。最近の学生の傾向はどうか。就職先は。
北原:理学科で約80名,そのうち物理コースにくるのが12〜13名で,それを5人の教員で見ている。どのコースをとるかは学生に任せているので,年ごとの fluctuationはすごく大きい。理学科にくる学生の数も年によって違う。卒業後,大学院に行く学生が多い(東大とか他の大学院へ)。ICUの学生はどちらかというと実験が好きで,1年生のときから実験の先生の部屋へ行って手伝ったりしている。1年次から実験を多くさせているのと,研究室に入りやすいというのがその理由と思われる。
○:ELPの結果,学生が英語力をどのようにつけ,後の学習にどう効いてくるか。
北原:ELPの効果としては,卒論をまとめるときに起承転結をきちんとしたものが書けること。ELPで論文はこう書くものだということをきちんと教える。相当鍛えられているようだ。
○:ELPであつかう論文の書き方は,物理の論文,理学の論文,一般の英文の論文のいずれか。また,クラスは習熟度別に分かれているのか。時間数は週に何時間ぐらいか。
北原:時間数は毎日4〜5時間。論文の書き方は,考えていることをIntroduction → 展開 → conclusion → reference の形できちんと書かせることをしており,どの分野でも通用する。ELPをパスするコースもある(帰国子女などの場合)が,だいたいはELPをとっていてA,B,Cの3段階ある。
○:日本語もままならない学生がいるが,英語を教育した方が効率いいのか,日本語を再教育した方がいいのか。
北原:英語を使って修辞学を行っていると理解している。日本語の場合どうしても主語があいまいになることがあるが,英語の場合,構造的に必ず主語にIがくる。自分がどうかが問われることが大事だと思う。言語には文化がくっついているので,英語を使うことは,自己表現,自分を自覚するという意味があると思う。
○:ELPでは何人ぐらいの先生が何人ぐらいの学生を教えているか。
北原:1クラス25人ぐらいを1人の教員が教えている。かなり人をかけていると思う。
小林:大綱化以来,教養教育が弱体化しているなか,ICUでは,むしろそれが強化されているように思えるが,どういう経過を経てそうなったのか。
北原:ICU自体が紆余曲折してやってきていて,ELPのプログラムが完成したのも数年前ではないか。自分で考え,批判して考え,それを書いて表現するということが上のステップに行くために大事であると認識されてきて,今の形が出来上がった。
○:リベラルアーツとしての物理教育を考えるときに,教育の仕方だけでなく,物理の中身はどういうものを取り上げて,それをどう教えるかが重要ではないか。どういうものを教えるのが「考える物理」になるのか。
北原:いま当たり前だと思っていることは本当かと問いかける姿勢がリベラルアーツだとすると,それは専門教育においても必要なこと。対象とする分野はあまり変わりないが,やり方が問題である。
○:「考えさせる物理」で,通常,大学の物理で講義している内容を網羅できるはずがないのでは。時間的にも。質疑応答して考えさせるためには,相当テーマを絞らなくてはじっくりと深めることができないのではないか。
北原:そういう意味ではある程度絞っている。例えば,力学・電磁気学・統計力学・量子統計などは扱うが,講義でやらないものは,topicsとしてadvanced seminar で学生の興味に応じて扱ったり扱わなかったりする。
○:目標として「考える物理」をやるというところまではいい。しかし,「ゆとり」のある教育をするために時間を減らすというのは全く逆の方向で,「考える物理」をやるためには今までの2倍,3倍に時間を増やさないと,じっくりと考えることができないのではないか。
北原:ICUの学生は「ゆとり」はないかもしれない。ものすごく忙しい。
○:忙しくて,その中で考えさせるというのは難しいのではないか。矛盾していないか。偏見からの自由と専門性の高い独創的な研究とは同じで,相当な時間をかけなければならないと思うが。
北原:skillとquestionは両方ないといけない。考えるだけでなく手が動かないとだめ。
○:skillをみがけば短い時間で考えさせることができるということか。
北原:skillとquestionはパラレルでないといけない。
○:じっくり考える時間が必要なので「忙しい」のでは。
北原:そのとおりである。

2.大学における教養・基礎物理教育の課題
 覧具博義(農工大工)

 物理という学問領域と物理教育は厳しい状況にあり,大きな課題を抱えている。その課題には日本独特の部分もあるが世界共通的な部分も少なくない。2000年12月にベルリンで開催された第3回世界物理学会会議では,「物理の社会的なstatusの低下」,「物理分野に進学してくる学生の大幅な減少」,「深刻な初中等物理教員の不足」,「効果的な教員継続教育の不備」が国際的に共通の問題点として議論された。
 これらの問題は,すでに1990年前後には世界各国で意識され議論されている。米国では,過去40年間に物理学士号を取得した20万人のうち,物理でPh.D.まで取得したのは7%であり,40%が学部から直接,20%が情報・電子・医学・法律などの上級コースを経由した上で,それぞれ広範囲の分野に進出している。この実績に基づいて,学部物理教育の目標を,物理研究者養成から,より広範囲の人材育成に拡大する必要性が指摘された。
 英国でも1990年頃から「教育する知識量が過大なため,学生にとって概念の把握が困難で,自ら考える時間が不足している」,「政府の大学増設政策で入学生の学力や志向のスペクトルが大幅に拡大した」などが,大学の物理教育の問題点として抽出された。これに対して英国の物理関係者が打ち出した改革の方向は,「学生が知識を吸収しなければならない速度を2/3に減速し,基本的な物理の理解を確実にする。また,モデル化による定量的な問題把握と解決の能力など,広い分野で有効性を発揮する一般的なスキルの育成を強化する」というもの。その実現のために,従来3年制であった学部課程の他に4年制課程を新設したほか,プロジェクト型教育やスキル育成カリキュラムを導入して教育方法の改革を図っている。これらの改革は,英国物理学会(IOP)の組織的支援を背景に,個別の大学の垣根を越えた協力体制で推進されて来たことがうかがわれる。
 物理教育の課題について,日本でも明確な問題意識が存在した。例えば,平成2年度に原先生を代表として行われた,大学における基礎物理教育に関する科研費総合研究の中で,「国際基準以下の物理基礎教育しか受けていない工学部学生が40%に達する」,「理系大学でも入試で物理を受験しない学生が5割にのぼる」,「物理基礎教育の条件が劣悪で実験設備や人員が絶対的に不足している」などの問題点が指摘されている。その後の10余年間に日本の大学でも多くの「改革」が実施されてきた。しかし,残念ながら,これらの改革の試みを通じて物理の基礎教育が改善方向に向かっているという実感を持っておられる方は少ないのではないか?
 大学の物理教育の有効な改革を実現するためには,改革のあるべき方向についての理念・目標の確立と,個々の教員の個人的な努力を相互に結びつける組織的な取り組みに加えて,大学教員の中で閉じて考え努力するのではなく,教育対象である学生,産業界,地域社会,そして初中等教育関係者など,外部からのチェックを積極的に取り入れ,これに対するfeedbackが有効に機能するような体制を実現することが不可欠と思われる。

質疑応答
○:大綱化以来,大学が非常な速さで変わっているときに,目標・理念が明確でないと言われたが,多くの場合,何かモデルがあって(精神までは考えない),それを真似ることになると思う。我々にとって何が真似るべきモデルとして存在しているのか。
覧具:たいへん重要な問題である。教育は文化に根ざしており,教育体制は,歴史や文化的環境のboundaryの中で,よりbestな方向へと動いている。どこかでうまくいっているものを,そのままもってきても,うまく働くとはいえない。従って,単に外国のものを真似しましょうと言っているわけではない。日本のこの10年の動きは,いいとこ取りのようなところがある。例えば,アメリカのAO入試は専属スタッフが1年中かかって実施しているが,その精神や背景を切り取って日本で実施しても,うまくいくのだろうか。
○:高校までの学力低下を補うために,大学で高校の分まで教育しないと繋がりが悪くなる。それをやっていると今まで大学でやっていたところまでcoverできない。今度は大学院で,いままで大学で教えていたようなことを教えればよいという発想もでてくると思う。大学院に入れば研究の手伝いをさせるというのではなく,みっちりと基礎教育をさせようという大学院での基礎教育充実の観点については,どの程度いろいろなところで議論されているか。また,これについてはどうお考えか。
覧具:基礎教育充実の考え方には全く同感だ。自分の経験から,MITの教育methodは30年前と全然違っている。大学院の学生に電磁気学や量子力学を毎週宿題を出させるなど,がっちり教育している。
○:その辺の認識が日本はまだ違うと思う。
覧具:大学によって違うとは思うが,日本では一般的に,大学に入ったら研究室に配属されて先生の背中を見ながら学ぶということが多いのではないか。一定量勉強しなければならないものが数珠繋ぎになっていて,その一つが済まなかったら,それは次の段階でということでもないのではないか。北原先生の講演でもあったように,より上の段階での教育は,知識を入れるということよりも,知識をいかに獲得して(しかも批判的に),それを新しいものとしてoutputするかといった方法論のweightのほうが高いので,知識量の不足を大学で補うというのとは違う発想ではないか。
○:大学院重点化の理念としては,学部と大学院(修士)までは,ものの考え方を充実させ,系統的に学ぶための一貫教育であるべきで,継続して大学院まで教育を充実させるべきである。知識量を増やすためにという意味で申し上げたわけではない。ただ,現在は大学院大学という発想になりつつあり,必ずしもそういう方向には行っていないと思う。研究はそこですればいいということになっているが,研究するためには,基礎的な知識ではなくて,基礎的な考え方のtrainingをするための一貫教育を修士まで,もっと充実させて行われなければならないということを申し上げたかったのである。
覧具:同様の議論を私の職場でも行っているところだ。
○:「実効あるfeedback機構の導入」についてもう少し具体的に。
覧具:現在,feedback機構があることになっているが,上下の優劣をつけるような評価ではなくて,大学の特徴を活かすためのadviceをするなどのpositive志向の評価がつくれないかと考えている。アメリカの場合,外部評価機構の中に卒業生を必ず入れている。卒業生は自分の母校をよくしたいという本能のようなものがあり,それも一つの方法ではないかと思う。

3.指導要領と教科書から見た高校物理の問題点
 兵頭俊夫(東大院総合)

 「Advancing Physics」は(英国)物理学会が中心になって作成した点で興味深い。東大でオグボーン教授の講演会を開くことになったので,興味のある人は来てほしい。
 日本物理学会が教育に関する声明や要望書などを出してきた結果,いろいろなことが変わりつつある(特に研究者の教育への関心の高まり)。「新教育課程に対する数学・物理・化学系諸学会の見解」(1999月3月12日),「第17期日本学術会議物理学研究連絡委員会報告『物理教育・理科教育の現状と提言』の提言」(2000年6月26日)は,自分にも矛先を向けている点でそれまでのものとは異なっている。
 学習指導要領およびその解説を作成するにあたり,自身が関った箇所は「理数科」の物理のみである。
 中学校の内容3割削減により次期学習指導要領で高校に移行される項目:「力とばねの伸び」,「質量と重さの違い」,「力の合成と分解」,「仕事と仕事率」,「自由落下運動(斜面の運動は扱う)」,「水圧」,「浮力」,「水の加熱と熱量」,「比熱」,「交流と直流」,「電力量」,「真空放電」。 次期課程では高校生の3〜4割しか物理を履修しなくなる可能性があり,それ以外は上記項目を学ばないことになる。また,化学では中学校で「イオン」を扱わなくなるが,高校で化学を履修するのは6〜7割しかおらず,残りは「イオン」を学ばないことになる。次期学習指導要領の内容を詳細にみると,中学理科と物理Tでどちらも定性的にのみ現象を扱う項目がある,「電流回路」,「熱力学」が見当たらないなどの不備がある。また,選択にすると課程では満遍なく扱われているように見えるが,個々の履修者はたいへん偏った内容を履修することになる。中学校からの移行で高校物理の内容は増えており,高校3年生の物理履修者の負担増になるだろう。学習指導要領の強制力は,教科書検定や教育委員会を含んだものを問題にしなければならない。「選択性の拡張」,「総合化の流れ」,「現場からのフィードバックの欠如」は大きな問題を含む。現在のセンター試験では物理と生物のいずれかしか受験できない日程になっているため,物理か生物かという考え方が固定化されてしまい,たいへん問題である。
 教科書は,「学習指導要領」,「学習指導要領解説」,「教科書編集者説明会議事録」に沿って編集される(検定に通すため)。中学校では項目の順序まで規定.現在の教科書検定の内容は「項目の過不足」,「正しい記述」に重点がおかれているが,本来は「筋の通った正しい記述がされているかどうか」が大切である。
 教科書作りは大学人が初等中等教育に協力できる最も現実的で大切な機会であり,学習指導要領の欠点がストレートに生徒に伝わらないようにできる場である。

質疑応答
○:学習指導要領が10年ごとにコロコロ変わり,十分な時間をかけて検討されないまま改訂されていることが問題だとよくいわれるが,十分な時間をかければいいのか。時間をかけて検討するとなると,検討するグループが独走する恐れがある(これは防ぐ方法がある)とか,社会状況や教育状況の変化に適応した指導要領ができるのかといったことが危惧されるが。
兵頭:十分検討されないで10年ごとに変わる学習指導要領が「強制力を持っている」という点を問題視している。その強制力がなくなるということがポイントで,そうなれば,じっくり時間をかけてもかけなくてもどちらでもよいと考える。学習指導要領は,時間をかけたからといっていいものができるとは限らないということについては同感だ。しかし,教科書は時間をかけてじっくりと作成する必要がある。
○:問題は総合化しており,そのため多様化は避けられない。従って検定はできるだけ自由にしていただきたい。10大学だけでなく他の全国の大学にも,優秀な学生が入学し,優秀な先生がいるという観点がほしい。
○:生徒にわかりやすい教科書は,高校の先生から見たらどうなのか。高校の先生はどういう教科書をおもしろいと思うのか。これらについて,今回執筆されてどう思われるか。
兵頭:よく,「制限があるからいい教科書がかけない」と言われる。今回は指導要領の範囲を守りつつ,思う存分書いた。家内(文系出身)に読んでもらったら,「読んでいたら何かおもしろい。少なくとも学校に行って先生の話を聞いたらわかるかなというところまでは書けている」とのことだった。あとでページ数は調整しようと言っていたが,その必要は一切なかった。「学習指導要領の制限がなければよい教科書が書けるか?」→ Yes。ただし,制限があってもよい教科書が書けるならば(教科書執筆者の熟練が必要である)。
○:多くの教科書は,章末問題とか節末問題は難関大学の入試問題が解けるための問題が並んでおり,それが解けるための授業となると全くつまらない授業になる。それは入試に難解な問題が出題されるからで,入試で素直に考えて解ける問題を出していただくよう検討していただきたい。
兵頭:入試問題については作成者に伝えたい。ただ,「難しい問題が解けるようになる教科書がおもしろくない」ということは証明されていない。今後,いい教科書が書けるように努力したい。
○:ユニークで他と全然違った教科書を作ると,採用率がうんと低くなる。いい教科書を使って「物理がおもしろい」という授業ができる先生を育てていき,物理のおもしろさを教育できる先生が,全国の高校の現場にもっと多くいるような状況を作る必要がある。
兵頭:たいへん重要な視点だと思う。現在私が行っている高校物理教科書執筆の方針は次のようである:「生徒が読んで分かる記述」,「学習指導要領を極力守る」,「出版社の基本方針に従う」,「理系の学生に必要な基礎を含める(←おそらく物理Tはセンター入試の範囲)」,「現場の先生が従来と同様に教えられる」,「典型的な例題はすべて入れる」。

4.高校物理教育現場からの問題提起
 鈴木 亨(筑波大附高)

 大学入試問題懇談会(日本物理教育学会主催)で,大学の先生から「受験に毒されているのは高校の先生の方ではないか」と指摘があったが,実は正解であり,皆さんが想像されるそれよりは,もう少しひどい状況である。
 大学の先生方が学習指導要領が変わったことに気づくのは,その指導要領の下での教育課程を終えた大学生が入学してからで,それでは遅い。現行指導要領を終えた学生が入学した1998年ごろから理科教育に対する危機感が叫ばれはじめたが,現行指導要領が実施されているのは1994年からで,告示されているのは1988年である。10年前には学習指導要領の内容はわかっていた。
 高校現場の実態:
多様化路線のパラドックス…指導要領で選択科目を広げても設置するのは学校単位である。例えば,理科の必修科目が2科目になったのは現行課程からという認識が多いが,1974年に施行された指導要領から理科2科目になっている。「理科T」のあった課程では,必修は「理科T」だけであったが,それでも「物理」,「化学」,「生物」もとっていた。そんな中「物理」は8割ぐらいの学校で必修にしていた.高校卒業に必要な80単位のうち38単位ぐらいが必修で,残りは学校現場単位で必修科目を決めて実施している(受験をにらんで)。指導要領で選択の幅を広げても,教員数,教室,時間割編成などの理由により限度がある。選択が増えたために,現行指導要領からほとんどの学校で,高校2年生で文系・理系分けするようになった(決めるのは1年生の半ば)。入試で“使わない”科目は“要らない”科目という認識が増えた。
民間教育機関への過度の依存…埼玉で「偏差値追放」と称して,公立中学で授業時間中に組み込んでいた業者テストを廃止した。その翌年,それが全国へ波及した。それでも業者テストはなくならない。それまで中学校の担任の先生が持っていた業者テストの数字を担任がもてなくなり,高校進学のための決定的な判断材料を持つのが塾に移っただけ。その結果,子どもが塾に依存する傾向が強まった。塾の先生の言うことは聞くが,学校の先生の言うことは聞かない。追放されたのはどちらか。高校においても同様で,学校が終わってからどこかの予備校に行くことが多くなった。さらに,学校の先生自身が,塾・予備校の教材や模擬試験を依存するようになった。特に,大学入試センター試験後,自己採点した結果を学校でまとめて業者へ送り,そのリサーチの結果を見ないと受験大学が選べなくなっている。
講義・演習中心の授業…“実験性善説”→実験はたてまえ上「無条件に大切」,しかし“時間が足りない”といって無条件に「できない」ともいえる。“時間が足りない”のウソ→標準履修時間数を大幅に上回って,実験をせずに入試問題演習をさせている。その一方で,標準時間数を守っている先生が,工夫して教科書にもでていない実験までしようとしている(スタイルの二極分化)。
事実よりも公式が優先?…某国立大学入試での試み「直線電流と磁場の関係を実験データから導く」→既存の知識に縛られて論理展開ができない。ばらつきのあるデータを強引に直線上にプロットした答案が目立った。
 カリキュラム作りへの参画の試み:現状の悲惨さ→無限の可能性。教員サークルの夢と限界。官製でないカリキュラム→物理学会の役割。
 イギリス「アドバンシング物理」に学ぶ…貧弱な日本の学習指導要領。外圧がないと動かない?

質疑応答
○:入試問題の例で,被験者が,出題者の意に反して式を優先して実験結果を曲げたことを問題視されたが,実験データを見せられた被験者が,予め被験者がもっている知識をもとに,実験に測定に何らかのミス等があるのではないかと考えた結果の,問題に対する積極的な反応だとは考えられないか。
増子:習った式のとおりに現実が合わなければ現実の方が絶対におかしいと思い込んでいる。その発想がおかしい。実際に実験を行っていないので,実験データは式のとおりになるものだ,と信じていることが問題である。
鈴木:いろいろな視点があっていいが,増子先生の言うとおりだと思う。
○:文系・理系に分かれるのを高校に入って半年ぐらいで決めさせられるとあったが,それがどういう結果になるのか,もう少し具体的に。
鈴木:まず,履修科目を決める際に,入試に“使わない”・“要らない”という発想に収斂され,文系には「物理」が最初から入っていない。文系・理系分けすることで失われるものは多く,そのこと自体が問題ではないかと思う。教科・科目を絞ったことで,本来の能力も伸びなくなっているのではないか。理系に入ったらそこそこ進学できてしまうが,大学に入ってから目標を見失ってしまう学生が増えているのではないか。
○:文系・理系で履修する項目の違いは(例えば数学)。
鈴木:現行課程で言うと,数学は「数学T」が4単位,「数学A」が2単位,その上で「数学U」,「数学B」を履修するようになっている。文系の場合,国語や地歴・公民の割合が増え,全体として理系科目の単位を減らし,高校2年生の段階で,理系・文系の相互乗り入れの授業がなくなってくるところが多い。
田中:センター試験では「数学T・A」および「数学U・B」を課す大学が比較的多く(文系では「数学T・A」までというところもあるが),高校で一斉に履修させる際には,文系・理系に関らず「数学T」,「数学A」,「数学U」,「数学B」まで履修させるところが多い。そのため,高校1年生時に理科は「化学TB」を履修するところが多く,2年生時では,センター試験の日程の関係もあり,「生物TB」(主に文系)か「物理TB」(主に理系)のいずれかを選択することになる。センター試験で選択する教科・科目で文系・理系分けされていくことが多い。
○:高校2年生で文系・理系分けされていく例は,他の国でもたくさんあることで日本だけではないので,それほど問題はないのではないか。むしろ,書店の都合のために早くから文系・理系分けをさせて,護送船団方式を行っているならば,その方が問題だ。
鈴木:教科書の発注もそうだが,むしろ,時間割編成ならびに教員配置の上で,文系・理系分けが早まっている。
○:高校現場では,教科書供給のための需要票を7月上旬に出さなくてはならない。その数と採択数が大きく違うと始末書を書かなければならない。私の高校では,文系・理系分けの調査は6月中旬から初めて6月末で締め切って教科書の冊数を決め,その数から大幅にずれないように文系・理系分けの指導をする。教科書会社の問題というよりは,むしろ行政の問題ではないか。
田中:高校では,文系コースに入ると,多くの場合,文系の教科・科目優先のために,「物理」や「数学V」・「数学C」は履修しないため,文系から理系に移れない仕組みになっている。 毎年,浪人してから,文系から理系にかわる者が少なからず必ずいる。
北原:ICUでは,物理専門だけでなく生物や化学の学生もinviteするような物理の基礎教育をしようと考えている。学生のlevel別に教え方が違うということはあっていいと思うが,将来進む方向が違うからカリキュラムを分けるというのは,あまりいい方向ではないのでは。進む分野が違っても,同じクラスを共有したというidentityは,学生にとって(異分野間の交流のためにも),とても大事なことではないかと思う。

総合討論

○:指導要領,大綱化,独立行政法人化,いずれについても,従来から変更するにあたっては合理的な説明があるべき。手引書のようなマニュアルがまわってくるだけで,それらの精神については何ら語られないのは問題。
○:ここ3回の指導要領の検討期間は,2年間→1年半→1年足らず,とだんだん短くなっている。指導要領の内容は新しいものほど斬新になっているが,斬新な内容であればあるほど十分な検討が必要だと思うが,果たしてそれ相当の十分な検討がなされているのか。新指導要領の実施段階になった時点で,その内容について,文部科学省の中学校課長や高校課長が責任をもって説明しないのはおかしい。何か浮き足立っている,いまの文部科学省の姿勢が心配である。
田中:いろいろな側面や複合的な問題もあると思うが,今回は特に高校と大学の接続という問題に焦点を当てて議論を深めたい。例えば,物理学会が官製でないカリキュラムを作っていくべきではないか,という意見もあったが,これについて何かご意見は。
○:学生に近い立場から一言。実際,理系・文系分けや理学部か工学部かを決めるのは高校の時だが,大学にどんな先生がいて,どんな授業をやっているのかについて,全くわからなかった。大学の募集要項に,大学でどういう専門をするとか明記されているのか。
田中:例えば,高校生や高校の先生方へ向けて,大学の情報の不足を補うために,某大手予備校では情報誌をつくって高校に配布したりしている。その中には,教育問題を扱っている号もあるし,分野ごとに各大学でどのような研究がなされているかを扱った号もある。また,インターネットで各大学のホームページに入って,いろいろと自分がしたいテーマを探している生徒も最近は多い。生徒が,自分が大学でしたい勉強をするために,どのような準備をしておかなければならないかを知る手段は,受験科目を見るしかない。私の教え子のある医学部生が私のところに久しぶりに来て言っていたことだが,自分は生物を受験科目で使わずに大学に入ったが,入った途端に生物を猛烈に勉強させられて大変だ,そんなことなら受験科目に生物も入れておいてほしかったと。受験する側から見ると,受験科目を見ることで,大学に入るにあたって,やっておくべき勉強の内容が表示されていると見ることができる。だからそれだけ勉強しておけばいいと思うだろうし,そこに「要る」科目,「要らない」科目がでてくる。だから,例えば,センター試験で5教科7科目を最低おさえておいてほしい科目として明示してあれば,多少きつくてもそれらを勉強するのではないかと思う。もし,受験の段階でそこまで要求しないのであれば,大学に入ってから丁寧に指導して頂くしかないのではないか。学生を送り込む側からすれば,そう思う。
○:大学入試センター試験は本当に機能しているのかどうか。今の高校生は,2回試験を受けなければならないのでかわいそうだ。
田中:センター試験の得点は資格試験的内容として取り扱うことを公表している大学もでてきており,今後,センター試験の得点については資格試験的な取り扱いが増え,より専門的な学力は2次試験(個別学力試験)でみるようになるのかなと,受験する側には見える。このことについて,大学の先生方がどう考えておられるのか,どなたかコメントしていただきたい。
小林:私の知る限り,中教審の「高校と大学の接続」というところで,その問題を本格的に取り上げるということで出発はしたが,結局それは大学自身が行う作業であり,中教審では無理だということで終わったように記憶している。大学審のようなところが本来この問題に対処すべきだが,真正面から取り組んでいないのでは。
○:日本の教育はやり直しをさせないということが続いてきたのではないか。その点,リベラルアーツはやり直しができる場を与えている点で価値がある。指導要領にしても,もしダメならやり直そうという姿勢も必要なのでは。学生にとっても,高校1年生の時には文系・理系をはっきりと決められないのでは。東大では教養学部という大括りで入ってそこで決めていく。大学に入ってもある程度の猶予期間が必要なのではないか。
○:指導要領を作り直すまでの間に大勢の子どもが犠牲になるので,可能ならば,どこかでパイロットモデルを作って試行してみて,それでよくなければやめる,よければ本格的に採用するというやり方がいいのでは。また,リベラルアーツ教育,教養教育を,大学の中でよりよい方向に持っていこうとすると,専門の先生方の理解という点で大きな問題がある。特に工学系の場合は,学部4年間で教育を完成させるという固定観念が非常に強く,大綱化で単位数を削るとなると,従来の一般教養科目を削るということになる。どうして一般教養科目が軽視されるのかというと,現職の大学の先生たちは皆,新制大学を卒業された人たちで,その先生たちが一般教養科目に対してあまりいい記憶を持っておられないからではないか。非常に限られた時間と単位数の枠の中で専門科目を減らせないとなると,いわゆる一般教養科目を減らすということがあちこちで見られる。この状況を改善するためには,まず専門の先生たちにリベラルアーツ教育の重要性を理解してもらわなければならない。その際,教育を扱っている学会などの役割はとても大きい。例えばJABEEのような機構が機能するようになると,従来の教育を見直すことにつながるものと期待される。いまのまま放置していると,日本の大学はすべて専門学校になってしまう危険性がある。
○:単科工業大学では専門教育をすぐにでもしたい先生がたくさんいて,はやく専門の講義が聴けるようにすることを一般教育のほうに要求してくる。ICUは日本で唯一リベラルアーツ教育が実践でき,本当の意味での教育が実践できている大学だ。それはアメリカの教育システムを導入しているためで,本来ならそうあるべきなのだが,日本の大学では,学部レベルで大学院レベルのことをどんどんやっており,ミスマッチしている。高校での教育を不完全に受けてきている学生を相手に教育することを思うと,大学基礎教育をどう再構築していくかは,きわめて重要である。また,物理学会がこういう問題に果たす役割は決して小さくない。IOPやAPSの取組みがその例。その時々の学会のリーダー達が一つの指針を持って,例えば,高校教育と大学教育の接点の問題等に対して活動できることはないかとか,ワークショップに講師を派遣するとか,いろいろな分野に詳しい先生を擁する学会の活動領域が,高校教育・大学教育・大学院教育にまで及ぶことを期待する。
川勝:イギリスで Advancing Physics が出てくる背景には,物理選択者の急速な減少を受けて,英国物理学会が協力して小・中学校カリキュラムの改善が行われ,その受け皿となるべき大学の教育改善が必要に迫られた状況がある。今の日本の状況は,小・中学校の教育が壊滅状態に近い。そこに手を加えずにいて,Advancing Physics に飛びつくようなことでいいのか。21世紀は多くの人が物理を選択する時代ではなくなり,物理の教育のあり方に対して大きな変革が要請されているといえる。高校と大学の接続も大事だが,中学・高校は一つのもので,いわゆるミドルスクールとしての位置付けで,中学校からしっかりと教育されたものがないと,Advancing Physics のようなものをもってきても無駄。そういう意味で,大学との接続はミドルスクールとの接続でなければならない。高校は後期中等教育である。小学校高学年から中学校までの科学教育が壊滅状態で,これからはここがもっとひどくなる。また,イギリスやアメリカの場合でも,財政面の保証があって改革が進んでいった。今の日本では,選択者が少数の場合はそのコマが削られてしまうなど,財政的な援助がないために教師の数も十分でなく,物理を希望しても選択できない状況にある。市民のための科学教育をもっと充実させていき,その裾野が広がっていってはじめて,Advancing Physics を受ける生徒も育っていくのではないか。
○:高校の先生はいろいろなしがらみの中でやっていくしかないと聞くが,大学の先生はそういう悩みをあまり言わない。物理に対する態度・考え方・捉え方がおかしいまま大学に送られてくることに対して,大学の先生はもっと発言すべき。これからは比較的大学も入りやすくなり,入試のための勉強が少なくなっていくだろうから,そういうところから高校と大学の接続を考え直してみてはどうか。また,今までの議論の中で,大学の先生が高校へ行って授業などを行っている例が取り上げられていない。また,高校の先生が大学に来て研修を行っていいはずだが,これも進んでいない。高校の先生は,大学の先生が高校に出向いていくことをどう思っているか,大学へ行って研修することをどう考えているか。こういうことについても伺えると,高校と大学の接続を考えていく上での参考になる。
北原:ポーランドでは,大学の先生が高校へよく出かけて行っている。そうすることが,ボランティア活動であると同時に自分にとってもいいことだという認識から,喜んで行っている。ヨーロッパではそれが普通らしい。
田中:高校の先生が大学で研修を受けようとしても,職場からの理解が得られないなどの理由から利用しづらいようでは問題だ。
兵頭:いろんな形で,大学の教官と高校の先生とは交流すべきだ。毎月1回,小・中・高校の先生方に数人ずつ集まっていただいて,物理に関係するカリキュラム研究を行っているが,その中で,現在どのように教科内容を教えているかを知ることができ,非常に参考になっている。カリキュラム研究は小・中・高と一通り通ってまた小学校にもどっているが,例えば,その中で「慣性の法則」について言葉の使用に食い違いがあることがわかり,それについて小・中学校の先生にも知ってもらい考えてもらった。「教育系大学の物理教育インフォーマルミーティング」でもその辺りについては取り扱ってもらえると思うが,教育はいろんな面においてlocal なので,いろんな案が出てきて,その中から全国共通のコンセンサスが得られればいいと思っている。全国でこのような取組みを是非していただきたい。
川勝:米国物理学会が2000ぐらいのPhysics Allianceを全米に張り巡らし,それが南米に拡大している。Physics Allianceは,言うなれば,小・中・高校の先生方のサポートシステムで,大学の先生が自分の研究を置いて,1年任期で,その州の相談役になっている。小・中学校の先生のレベルを上げるにはアカデミックなサポートが必要。日本でも,小・中・高校の先生方のサークルに大学の先生も出て行ってはどうか。日本は,日本の先生方がvoluntaryにつくっているteachers’ circleを米国や英国に輸出した。米国や英国では,それを母体としてPhysics AllianceやAdvancing Physicsをつくった。日本でも,大学の先生と現場の先生が一緒になって新しいシステムをつくっていってはどうか。日本の小・中学校は縦割りの強制力がとても強いが,大学の先生からのアドバイス一つで新しい取組みができるようになる。今後,localな取組みのネットワーク化が必要である。
田中:今回の議論を踏まえて,次の秋季大会ならびに年次大会のシンポジウムを企画し,皆さんの意見を集約できるものにしていきたいと考えている。長時間,有難うございました。


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