|科学の終焉|さよならダーウィニズム|新恐竜伝説|惑星は巨大な磁石|科学がきらわれる理由|はるかな記憶|古代日本の超技術|死の舞踏|虫の思想誌|複雑系による科学革命|道楽科学者列伝|ネアンデルタール人とは誰か|時間について|ネアンデルタールの謎|科学を計る|ニワトリの歯|ロバート・フック|昆虫の誕生|サイバースペースの著作権|機械の中の幽霊|パンダの親指|風の博物誌|科学論入門|複雑系|生命科学|カーマーカー特許とソフトウェア|科学革命の歴史構造|カーマーカー特許とソフトウェア|
ジョン・ホーガン著
竹内薫(たけうち・かおる)訳
徳間書店
本体2500円 490p
監修:筒井康隆
本書はそのタイトルが述べる通り,科学に終焉があり,そしてそれはすでに来てい
る,と主張する書物である.この主張を裏づけるため,著者は,哲学から物理学まで
の広い分野に渡って今世紀の巨人ともいうべき人々のうち,存命者につぎつぎとイン
タビューを敢行した.対象はクーン,クリックからホーキングまで,まさに著名人そ
うざらえといった感があり,圧巻ではある.
さて,この構成で科学に終焉があり,それはすでに訪れている,という著者の主張
はうまく読み手に伝わっているだろうか.残念ながら,本書はこの壮大な目的の割に
はややちゃちなしろものになってしまった感は否めない.インタビューされている個
々の科学者は,決して“科学は終わった”などといわないわけだし,そこを無理に“
科学の終焉”へと結びつけよう,というやり方には土台無理があったように思う.
しかし,いっぽうで,これは著名な科学者たちが“科学に終わりはあるか”という
問題についてどう考えているのかを記録したインタビュー集だと思えば,なかなかよ
くできている.誰しも,自分のやっていることが無意味だといわれればつい本音を出
して反論してしまうものだし,科学者とて例外ではない.十人十色の反応には個々の
科学者の個性が感じられて楽しめた.そういう読み方をするつもりならこの本は十分
に読むに値する本だといえよう(実際,そういう意味でこの本を評価する書評にはい
くつかお目にかかった).
肝心の“科学に終わりはある”という著者の主張はどんなものだろう? 基本的に
彼の主張は30年ほど前にステントが‘進歩の終焉’の中で展開した議論,つまり,科
学の歴史は数百年しかなく,このまま指数関数的に科学研究の速度が速くなっていけ
ば,いずれ主な科学のテーマはすべて解明されてしまい,残るのは落ち穂拾いだけだ
ろう,という主張の再検討にすぎない.著者は現在の科学がすでに落ち穂拾いの段階
に来てしまい,禅問答のような答えのない問い,例えば,宇宙の始まりはどんなだっ
たか,とか,意識とはなにか,とか,そういう問い,を研究してお茶を濁していると
思っているようだ.著者はそんな科学を“皮肉の科学”と呼んでおり,テキストの解
釈に終始する文芸批評のようなものだ,と批判するのである.
確かに,最先端の科学はむずかしくて素人にはわかり憎くなっているように思える
し(答えの無い問いを無理矢理研究する“皮肉の科学”だから答えを聞いてもピンと
来ない?),量子力学とか相対論とか進化論とかDNAの発見のような大きな発見は最
近はあんまりないようだし(主なテーマが解明されてしまったからだ!),おまけに
環境問題などにみられるように,科学に基づいた技術には限界が来ていて科学に注力
してもあんまり見返りなんかなさそうである.そんな状況で“科学の終焉”とかいわ
れるとなんとなく納得してしまいたくなる気持ちもわからないではない.
しかし,正直いってこういう考え方はやや浅薄であり,益よりも害のほうが多いと
いわざるをえない.だいたい,新発見がもうないだろう,という論拠自体きわめて薄
弱であり,上記のような時代の閉塞感に寄り掛かった安易な議論のように思える.
例えば,著者は実証不可能な科学を“皮肉の科学”と呼んで非難するいっぽうで実
験が不可能(でないまでもいちじるしく困難)な進化論はすでに解明されてしまった
偉大な成果,のほうに分類している.進化論を“正しい”と思えるなら,“宇宙のは
じまり”についてのなんらかの議論だって,正否の判断ができそうなものだ.そこを
なぜ無理して分けなくてはならないのか.結局,説明がうまくいっているかいないか
の差だけではないのか.評者には,きわめて御都合主義的な区別のように思えた.
また,科学の方法論の進歩をまったく議論せず,いまの方法論のままで限界がある
とかないとかいう議論を展開するのもかなり,短絡的だと思う.聞くところによれば
メンデルの遺伝学が埋もれた理由の一つとして統計学の未整備があったという.同じ
ように,いまは“皮肉の科学”としかみえないものも,方法論の進歩で検証可能にな
らないとは限らないだろう.科学の将来を科学の現在の知見で判断しよう,という試
み自体が自己矛盾をきたしているように思われてならない.
さらに,新発見が本当になくなるとしても,これをもって科学の終焉と名づけるの
はかなり短絡的である.新発見がなくなれば,確かに科学者は失業するだろうが,そ
れと科学が終わるかどうかとは別の問題である.科学の終焉,などというと往々にし
て科学的な自然観はもう限界だから,別の自然観(観念論,宗教,などなど)に頼ろ
う,などという主張をすることになりがちだが,この議論は四則演算が発見されても
解決しない問題がいっぱい残ったので四則演算は使うのをやめよう,というにも等し
い議論の飛躍だ.新発見がなくなったらそれは科学の完成,なのであって,終焉では
ない.それをあえて“終焉”と呼ぶ態度には,著者の意図の有無にかかわらず,科学
の成果そのものを否定する風潮を助長しかねないものがあり,きわめて危険である.
たとえ新発見がなくなったとしても,科学的な考え方は人類がいままでみいだした
考え方の中でも最良のものの一つであり,失われないように努力する必要こそあれ,
進歩がなくなったからといって軽々に捨てされるようなものでは決してない.人間が
どう思おうがリンゴは地面に向かって落ちるのであり,これを正しく理解できるのは
科学的な考え方しかないのである(すくなくともいまのところは).科学に進歩があ
ろうが無かろうが科学的な考え方から人間は逃れることはできない.
つまるところ,この本は単なる科学読み物(最先端科学の紹介)としては意味があ
るもの,肝心の“科学の終焉”というテーマについては,ただひとつの役,つまり,
テレビで科学嫌いの似非知識人が“科学なぞ止めてしまえ”と口角泡を飛ばすときに
手にもって机を叩くのに使われること以外には利用価値がない代物といえるだろう.
本書にはいろいろな感想がありうると思う.インターネットでアクセスできるもの
を,いくつかリンクしておいたので
参照していただければ幸いである.
「科学」1998年3月号掲載
講談社選書メチエ
1997年12月10日初版発行
242頁
定価 1553円 (税別)
著者 池田清彦
評者 田口善弘
本書の副題は「構造主義進化論講議」となっている。著者は本欄昨年9月号で紹介
した「虫の思想誌」の著者である。あのときは「構造主義生物学」なるものについて
「
具体的に書いてほしい」と要望を述べたが、本書でその要望はかなえられる。
題名の通り、突然変異+自然淘汰で進化を説明するダーウィニズムはもはや古く、
解釈として誤っている、とする本である。こう書くとなんとなく、「とんでも科学本
」みたいなもの思われるかも知れないが、決してそうではなくて、進化、という現象
を新しい観点から説明しよう、という真面目な試みである。そして、その試みを「構
造主義進化論」と名付けている。
構造主義進化論とは、要するに構造主義の進化への応用である。進化とはランダム
な変位と淘汰から生じる無方向なものではなく、ある程度方向性が決まった発展であ
る、というのがその主旨であり、「方向性」は現存の生物が有している種々の「構造
」を全く無視して進化することはできない、という制約から来る、とする。これは、
本書で上げられた例ではないが、例えば、背中に羽の生えた馬、などとうものは足が
4本しかないという陸上脊椎動物の「構造」を前提にしたらありえない、鳥に「手」
が無いのは必然だ、とかいうことであろう。つまり、無目的でランダムなダーウィニ
ズムでは進化を完全には記述できない、という主張である。
個々の事例は興味深く、おもしろいものがあったが、現実問題としてダーウィニズ
ムの信望者がこの本を読んで宗旨換えする、ということはあり得ないだろう。確かに
著者の個々の思想はうなづけるところが多く、物理屋の僕としてはむしろ、著者の思
想に共感したい部分が大きいのだが、正直言って、まだまだ挙げ足取りの羅列、とい
う感じがする。ただ、ニュートン力学の揚げ足とりに過ぎない、と思われたマッハの
分析が後にアインシュタインの相対論で裏付けられたということもあり、完全なほら
話しと切って捨てられるレベルでも無い。
著者は本書の最後で結局、進化が実験的に研究できなければ決着はつかない、と述
べている。そういう時代はそうさきのことでは無いだろう。本書でも触れられている
「眠れる遺伝子進化論」(四方哲也・講談社)にはその萌芽が見られる。合わせて読
まれると面白いかも知れない。
技術と経済1998年3月号掲載
ハヤカワ文庫NF
1997年6月30日初版発行
282頁
定価 620円 (税別)
著者 金子隆一
評者 田口善弘
この本を読んで、10年程前の院生時代にバッカーの「恐竜異説」で恐竜温血説を
読んで興奮したのを思い出した。残念ながら今ではこの説は極めて旗色が悪いらしい
。恐竜学(という学問があるのかどうか知らないが)もまた他の科学と同じように生
きた学問である。そして、古生物学の一部門である以上最近の生物学の様々な革命と
無縁ではあり得ない。そんな3年ひと昔、とも言われる恐竜研究の最前線をリサーチ
した貴重な和書だ。
金子隆一氏は著名なサイエンスライターだが、この本に関する限り少なくとも、研
究者が書いた解説書とみまごうばかりの凄さである。正直言って、出てくる恐竜の名
前など殆ど解らないし、分子系統学や系統分類学の初歩的な知識なしにこの本を読む
のはかなり苦しい。これほど専門的な本がハヤカワ文庫などというメジャーな文庫に
刊行できる、というのは恐竜学ならではの現象だろう。
実際、これはハッキリ言って恐竜を題材にした進化生物学か分類学の本と言っても
良い。この本を読んで「虫の思想誌」(本欄9月号紹介)を思い出した。要するにこ
れは虫の代わりに恐竜に見入られた人の書いた本なのだ。氏と一度お会いしたことが
あるのだが、自腹を切ってオーストラリアまで(恐竜では無い)古生物の化石を見に
行って帰国されたばかりだった。御本人の意識としては学術論文こそないものの研究
者並みの知識を維持しているという自負があるのだろう。
この本は数年前の恐竜ブーム時代に刊行されたものの文庫版で学問の進展に合わせ
た加筆修正がなされている。文庫版後書きの中で氏はブームが去った後、夏休み恒例
の恐竜展さえ無くなってしまったことを嘆いている。言外に科学ジャーナリズム批判
をしているが流行ったときだけ群がるジャーナリズムには本当にどうにかして欲しい
といつも思う。
この本の前にたまたま「さよならダイノサウルス」(ハヤカワ文庫SF)を読んだ
のだが、いろいろ興味深かった。例えば、なんでしゃべる恐竜としてトロエドンが選
ばれたのかなど、7章を読んではじめて分かった。SFファンはこのSFを読んだ「
後」に本書を読まれるといろいろ楽しめるだろう。
なお、本欄3月号で紹介した「ニワトリの歯」がハヤカワ文庫NFに降りた。前に紹
介した時に値段や大きさでちゅうちょされた方はこの機会に購入されてはいかがだろ
うか?
技術と経済1998年2月号掲載
青土社
1997年5月25日初版発行
329頁
定価 2800円 (税別)
著者 G. L. バァーシュアー
評者 田口善弘
本書はいわゆる科学史の本に位置付けられると思われるが、科学啓蒙に並々
ならぬ情熱をもつ電波天文学者が執筆した、というところがちょっと異色だろ
う。
題名からは地球物理学の内容を想像するかもしれないが、原題はHidden
Attraction。近代以前の人々にとって、磁石の目に見えない引力は非常に不思
議なものだったのだろう。原題にはそんな時代の感慨が込められている。
本書は電磁気学の科学史である。ただ、「磁石」を軸にしたところがやや異
色だ。物理学を多少なりともかじったことがある人なら一度は聞いたことがあ
るだろう有名人達(アンペール、ファラデー、マックスウエル、ヘルツなど)が
「磁石」を軸にした研究という観点から整理されて登場する。ニュートンの登
場を近代物理学の始まり、とするのとはやや異色な配陣である。
磁石がなければ20世紀の科学技術が存在しなかっただろう、という下りは
ちょっとこじつけが過ぎる気がするし、第10章からあとの現代物理学の解説
の部分はやや散漫である。訳もややこなれていない気がする。しかし、それで
も、磁石への興味が科学を発展させた、という仮説の検証に向けて、個々の科
学者の人生など折り混ぜながらの語り口は読みごたえがあった。また、俗説と
異なり、マクスウェルが電磁波の登場を全くと言っていい程予見していなかっ
たというのもちょっと新しい発見だった。決して読んで損したと感じるような
本ではないだろう。
しかし、いつも思うのだが、どうして日本には研究と啓蒙書執筆を両立させ
られる人が少ないのだろうか。日本で科学者の科学啓蒙活動、というと功成り
名とげた人の余業という感じがどうしてもつきまとう。社会的な制約が何かあ
るのだろうか?先月紹介した「科学がきらわれる理由」にも、現役の科学者に
よる啓蒙書執筆が大事だと強調されていた。実に残念なことだ。
最近の大学一年生など見ていてもテレビの科学番組や科学啓蒙書などほとん
ど見聞きしていない様であり、結構問題だと感じる。大学1年生に「科学のお
もしろさ」から解き起こすのもややげんなりする作業だ。もっといい科学啓蒙
書が増えて、せめて理工系の大学に入っている学生くらいは前もってそういう
ものをふんだんに読めるようになって欲しいものだ。
技術と経済1998年1月号掲載
青土社
1997年6月30日初版発行
288頁
定価 2600円 (税別)
著者 ロビン・ダンバー
評者 田口善弘
原題は"The Trouble with Science"。科学の困難、といった意味だろう。ご想像の
様に高校生の理科離れ、なんていうのも本書の大きなテーマだ(地球の裏側でもあま
り事態は変わらないらしい)。だが、本質的な「科学の問題点」とは、科学に完全に
依存した社会に生きながら、理科/算数アレルギーな人が無茶苦茶に多い、というこ
とだろう。
ダンバーはこの問題について心理学から動物行動学、科学史までの広範な知識を駆
使して小著ながら説得力ある議論を展開している。その詳細をここで論じることは出
来ないが、ダンバーの結論は、「人間の頭脳は高度に数理的な科学には向いていない
ので科学のレベルをこれからも維持しようと思ったらとてつもない教育費用がかかる
だろう。しかし、科学なしでは我々は生きて行けないのだから選択の余地はない」と
いうものだ。そして、本の最後を気候変動に直面しても過去300年間うまく行った
からというだけの理由で農業のやり方を変更しなかったために滅亡したグリーンラン
ドのバイキング植民地の不気味な暗喩で終えている。
実際、最近の理工系大学生を見ていても、現状の大学教育についていけなくなりつ
つあるということを強く感じる。評者はよく、物理の教育のレベルを下げよう、ある
いは4年間でなく6年でいままでの4年の課程を修了するようにしよう、と主張する
のだが、大抵の場合、単なる「さぼり」としか受け取ってもらえない。しかし、現実
問題として、学生が履修に困難を感じるカリキュラムを続けることにどういう意味が
あるのだろうか?単に過去半世紀ほどそれでうまく行っていたからというだけの理由
で?
理由は簡単だ。「業績評価」という名の大学教官に対する締め付けが、研究の役に
立つ、「できる大学院生」以外の学生へ労力を費やすことを禁じているのだ。この規
則に従わない教官は「淘汰される」。
おりしも中教審では高校レベルの科学教育の「切り捨て」が断行されようとしてい
る。それも、「理科の授業が難しくてつまらないから」というだけの理由で。難しく
てつまらなければ、理科の授業自体を改革するのが本筋だろう。無くしてしまうなど
、本末転倒もはなはだしい。我々人類はどうやら、ゆっくりと自殺することに決めた
らしい。自分の非力さが返す返すも残念でならない。どうにもならないことなのだろ
うか、これは。
技術と経済1997年12月号掲載
朝日文庫
1997年8月1日初版発行
上巻・347頁・下巻・355頁
定価 各720円 (税別)
著者 カール・セーガン、アン・ドルーヤン
評者 田口善弘
原題は"Shadows of Forgotten Ancestors"。忘れられた祖先の影、とは何だろうか?
著者の一人は1996年に急逝して世界中に衝撃を与えたことが記憶に新しいセー
ガンである。というより、コスモスというテレビシリーズの生みの親、と言った方が
通りがいいかもしれない。惑星科学者として著名な彼が今度は愛(?)妻ドルーヤン
と共に生命の歴史に挑戦した。
本書のテーマはずばり、ヒトとは何か、である。ヒトは動物である。動物である以
上、生物学の対象であり、その点でなんら他の動物と変わることは無いはずなのだが
、ヒトは古来から動物とヒトを峻別しようとし続けてきた。ヒトの建てたビルは「人
工物」なのにアリ塚(往々にして家より大きく、百年以上壊れずに立続けたりする)
は「自然物」だ、という分け方などもそんな意識の表われに他ならない。
しかし、最近の分子生物学の進展とともに、ヒトと他の動物の間に特別な線を引こ
う、という行為は著しく科学的で無いらしいことが解ってきた。チンパンジーとヒト
は99.6%まで遺伝子が一致すると言う。行動学的に見ても、ヒト特有の行動と思
われてきたもの(愛、協調、言語、道具など)がことごとくそうでない(類人猿にも
ある)ということが解ってきた。
この様な事実からは往々にして「しょせん、ヒトは危ない道具を振り回すサルに過
ぎないのだから」未来はない、などという安易な結論が導かれがちだが、著者らはそ
うは言わない。冷静に見て見れば、類人猿などの動物の世界は決して弱肉強食のすさ
んだ世界ではなく、モラルのある合理的な世界だと言うことが解る。だから、ヒトは
動物といっしょだ、ということを恥じるのではなく、一緒だからこそうまくやって行
ける、と誇りに思うべきだ、というのである。忘れられた遠い祖先のことを思い出し
て.....。
ヒトの将来、というとどれだけ理性的に生きられるか、という観点からばかり論じ
られるが、動物としての本来の性質自身に救いの道があるのではないだろうか、とい
う観点は「環境保護」や「多様性の保全」など、いかにも人類は地球の主人です、的
な肩のこる発想よりもはるかに自然に感じられた。
技術と経済1997年11月号掲載
ブルーバックス
あっと驚くご先祖様の智恵
志村史夫 著: 本体 740円
発行年月日:1997年6月20日
サイズ:173×113mm :220ページ
ブルーバックス、といった類の双書の目的はなんだろうか?それはやはり、「科学
する心」を伝える、ということだろう。そこで大切なのは「科学的な事実」という結
論ではなく、「いかにしてその結論に達したか」という科学的な思考の過程である。
よしんば「結論」自身が間違っていたとしても(それが著者の私見/試論であると明
記してあれば)「過程」が正しく伝えられていればその目的は十分達せられたといえ
るだろう。本書はこの目的を十分に達している科学書であると言えよう。
本書で扱われているのはそのタイトル通り、「過去の」技術体系である。過去のも
のである以上、その詳細は失われてしまっているわけだが、その解明をあくまで「科
学的に」行おうという姿勢に好感が持てる。例えば、現代ですら困難なヒスイという
硬い鉱物にきれいな穴を縄文人があけられたのはなぜか、とか、千数百年も前に建造
された木造建築が今だに残っているのはどうしてか、などという疑問に対し、推理小
説ばりの科学的な考察を加えて行くのは実に小気味良いものがある。仮にこの結論が
間違っていたとしても「科学的思考とはこういうものだ」という姿勢は非常によく伝
えている、という意味で良書といえるだろう。特に、著者自身が長年携わってきた半
導体製造技術とのアナロジーで語られるとき、その「推理」は真骨頂を発揮する。半
導体と、ヒスイや木造建築になんの関係があるのか、と思われる方もあろうかと思う
が、それは本書を読んでのお楽しみ、ということにしよう。
一方で、いささか勇み足、と呼べないでもない箇所が多々見られたのは残念だ。例
えば、著者の縄文人へ入れ込みは結構だが、土器の製作とアスファルトの石器への使
用という点において、縄文人が世界で最初に実現したとしているのは本当だろうか。
ドルニ・ヴェストニッツェで27000年前の焼成土器のかけらがみつかっていると
いうのが通説だと思うのだが(勿論、縄文土器よりずっと古い)、これについて全く
触れられていないのはどういうことか。また、石器の歴史はアフリカやヨーロッパの
方がずっと古いと思うのだがアスファルトの使用だけ日本が最古とは信じられない。
これらの主張にはいずれも明確な参考文献があげられておらず、確認できなかったの
は残念だ。
また、各章末に多くの文献が挙げられているようだが、これらはいずれも啓蒙書の
類である。全てを読んだわけではないのでなんとも言えないが、これらの啓蒙書の内
容をまとめ直しただけの部分があるとしたら、なぜ、わざわざこの本に収録されてい
るのか疑問が残る。例えば、第3章の「倒れない五重塔」など、著者オリジナルの部
分がどこにあるのか良く解らない。省いても良かったのではないか。
本書のタイトルも良くない。これでは某オカルト雑誌によく出てくる「失われた古
代超文明」とかいう類の内容みたいではないか。こういうタイトルの方が売れるのか
もしれないが、もっと的確なタイトルをつけてほしかった。
本書は材料科学にずっと携わってきた著者独自の視点から「古代技術」というもの
を科学的に推理/考察するという非常にユニークな内容を持った良書であるだけにこ
れらの欠点が実に勿体ない。もう少し、内容を取捨選択して著者独自の視点が全面に
出るようにすべきでは無かったか。この点は編集者の責任も大きいと言えよう。今の
出版状況で理想的な本作りは難しくなりつつあるのかもしれないが、せっかく良書に
なるべきネタを扇情的なタイトルと、玉石混交で疑問が残るような付加物で台なしに
してしまった感は否めない。日本を代表する科学双書の誇りがあるならもう少し襟を
正してしかるべきではないか。
いろいろきついことを書いたが、文章はこなれており、数式も殆ど出てこないので
読みやすい。決して買って損した、と感じることはないだろう。ただ、もっと良くな
っただろう、とおもうとやや残念なだけだ。ブルーバックス編集部の奮起に期待して
筆を置くことにしよう。
日経サイエンス1997年10月号掲載
福武文庫
1995年11月10日初版発行
817頁/定価951円(税別)
著者 スティーブン・キング
訳者 安野 玲
評者 田口善弘
死の舞踏などという陳腐なタイトルの本は普通なら願い下げだ。データベー
スを検索すればこんな題名の本は十冊近くもあることが解る。が、しかし、こ
の本に関する限り、その中身は選りすぐりだ。本書の著者はスティーブン・キ
ング。一時に比べるとやや勢いが衰えたとはいうものの、モダンホラー『キン
グ』としての名声は揺るぎもしない。本書はそのキングが自らものしたホラー
文学/映画/TV/などの概説/研究/解説書である。
ホラーなどというといかがわしいポルノなどと並んで良識ある人々の悪書追
放キャンペーンなどでやり玉にあがり、猟奇殺人犯の愛読書とでもなれば、た
ちまち一大追放キャンペーンが巻起こる、というのがお定まりのパターンだが、
本書はその様な傾向に対するキングによる弁明の書、と言えない事もない。
キングは、本書の中でホラーを弁護するにとどまらず、むしろ正気を保つの
に必要なもの、とまで主張している。我々の日常は平和で安定であるかの様に
見えるが実はそれは幻想でしかない、とキングは言う。小さな子どもにとって
日常生活は本当はショックの連続であるはずであり(外国で暮らしたことのあ
る人には経験があるのではなかろうか)、子どもは子ども特有の心の柔らかさ
でこのショックを乗り越えて行く。大人になる、ということは、日常を疑問に
思わくなることとひきかえに、心の柔らかさを失って行く事なのだと。そして、
この「平穏無事な日常」の中には600万人のユダヤ人を虐殺することや、温
室効果を悪化させながらクーラーをつけて平然と涼む、といったことも含まれ
ている。
ホラーはそんな風に懲り固まってしまった心を一時的に柔らかくしてくれる
効果がある、とキングは語る。ホラーの中で日常が破壊されて初めて、我々は
日々の生活がいかに特殊なものであったのかということを、そして、いかに我々
は日々「狂って」いたのかということを再認識できるのだ、とキングは主張す
る。ホラーについての脅威的に豊富な知識を駆使して、キングは繰り返し、こ
れについて、ただ、このことだけを語ろうとする。
これは多分、正しいのだろう。我々は皆、「現実」という狂気の中で等しく
発狂しながら生きているのだ。そして、時々、正気に戻るためにキングが書く
ような良質のホラーの助けを借りる。それが全く出来ないような人間こそがきっ
と最高のホラー以上に恐ろしい存在なのだ、と私は思う。
技術と経済1997年10月号掲載
講談社学術文庫
1997年6月10日初版発行
220頁/定価660円(税別)
著者 池田清彦
評者 田口善弘
生物ネタ(進化がらみの)である。文章がうまい。啓蒙書をたくさん出している。この「流行の3拍子」を全て満たしながら何故かメジャーにならない(ここで、「メジャー」と呼んでいるのは「大新聞」やテレビに出てくる人達のことである)物書きとは誰か?答えはこの本の著者の池田清彦である。
僕自身、池田氏の著作を多く読んでいるわけでも無いのだが、今回この本を読んで見てどうして池田氏がメジャーにならないのかちょっと解ったような気がする。
まず、第一にレベルが高すぎる。例えば、41ページに「進化に関して彼(ダーウィンのこと:評者注)自身の創設した理論は、種の実在性を擁護しない」などと書かれても予備知識の無い読者にはよく解らないのではないか。「進化に関して彼自身の創設した理論」とは、有名な「種の起源」の内容のことを言っているのであるが、「種の起源」と題する本の内容が「種の実在性を擁護しない」などという記述は読者を非常に混乱させるだろう(もっとも、これは専門家の間では周知の事実のようである)。こんな感じの記述がやたらと多い。この一見、エッセイ風の親しみやすそうな装いの本を読むには、進化をめぐる様々な予備知識が必要なようだ。
一方で、そういう難しいことを除いた筆者自身の体験談はなかなか味がある。僕は北社夫のドクトルマンボウシリーズを思い出してしまった。確か、その中にも北氏が昆虫気違いになった時のことについて触れられている巻があったのだが、内容といい、書き方といい、それを彷彿とさせるものがあった。どうも虫気違い、というのは皆、同じ様な体験をするようである。
本書は、筆者が最近提唱しているという構造主義生物学の観点から進化を論じるのに虫と言う身近な題材を用いたエッセイだそうなのだが、この本を読んでも構造主義生物学がどんなものかは良く解らない。にも関わらず、文庫版前書き(単行本版は1992年刊の「昆虫のパンセ」)には「その(ネオダーウィニズムの:評者注)破綻はもはや誰の目にも明らか」などと書かれており、フラストレーションがたまることこの上ない。どうせならそういうことを具体的に書いて欲しかった。氏の他の著作の挑戦してから再度、この本を読み返す、というのが本書の正しい読み方なのかもしれない。
技術と経済1997年9月号掲載
講談社
1997年5月28日初版発行
334頁/定価2400円(税別)
著者 ジョン・キャスティ
訳者 中村和幸
評者 田口善弘
複雑系をめぐる本がまた一冊刊行された。今度は、今までと異なり、実際に複雑系を研究している研究者が書いた啓蒙書である。
実際に研究している研究者が書いただけあって、内容を理解せずにただ羅列的に並べると言うことはさすがにしていない。だが、筆者自身も断っているように、複雑系は海のものとも山のものともつかない始まったばかりの学問分野なのである。そういう意味では、本書もまた、あくまで、著者の一私見であることを踏まえて、読んで行くべきだろう。
例えば、第3章に「意外性を生む5つのメカニズム」と題する節があり、その5つとしてパラドックス、不安定性、計算不能性、連結性、創発性があげられているが、このいずれも昔からある概念であり、複雑系の研究の成果として生まれた概念とは言いがたい。その結果、この5つを読んでもどうも複雑系について良く解ったとは言えない様な気分になる。
この本の書き方は大体においてそんな感じで、非常に興味深い、面白い例がいろいろあげられているが、それが複雑系とどう関係あるのかどうもいまいち解らないのである。あっと驚くようなおもしろい話が読みたい、というのであれば、なかなかいい本なのだが、複雑系について理解したい、とか思うと案外、期待通りにはいかない、という感じの本である。
とはいっても、この本の著者はいろいろな分野を良く勉強しているものだ、と感心してしまう。芸術から科学まで、それこそ博覧強紀といった趣である。一体、この人は何を研究しているのか寡聞にして知らないのだが、物書きとしてはすごいということは疑うべくも無い。末筆ながら、この著者は本欄1996年7月号で紹介した「20世紀を動かした五つの大定理」(講談社)の著者(そして、訳者も同じ)である。前著は数式など多かったが今度は数式は殆どでてこない。著者自身、この本を書いた時に「君もとうとう数式の無い本を書き上げたね?何かの間違い?」とからかわれたと述介している。数式アレルギーの方も安心して読まれたい。
技術と経済1997年8月号掲載
中公新書
1997年4月25日初版発行
205頁/定価660円(税別)
著者 小山慶太
評者 田口善弘
科学者、という職業が成立したのは意外に新しく、電磁気学や「ロウソクの科学」で有名なファラデイも「科学者」と呼ばれるのを嫌ったと言う。本書はそんな「科学者」が成立する以前の「科学に奉仕した人々」の物語である。
「科学者」という職業が成立する前は、趣味でしか科学をすることが出来なかった。勢い、貴族、とか、成功した実業家の御曹司、などという人々が、科学に奉仕する事になる。ちょっと驚きなのはそのような「趣味」の成果だったにも関わらず、後世まで残るような科学的な業績が残っている事だ。本書ではちょっと触れられているだけだが、進化論のダーウィン自身、「趣味」で科学を行なった人物に他なら無い。我々はなんとなく、科学、というときびしい論争と検証の果てに偉大な業績が確立する、と思いがちだが、決してそうではない時代もあったのだ。本書で取り上げられた「科学者」達は必ずしも有名な人々ばかりではない(シャトレ候爵夫人、ビュフォン伯爵、ラボアジエ、バンクス、ローエル)。むしろ、何をやった人か知らない方の方が多いかも知れない。
ここで選ばれた人々は、科学の業績の偉大さで選択された、というより、「道楽で科学を行なっていた古き良き(?)時代」の典型例としてあげられたからなのだろう。人間味溢れる科学の時代、というわけだ。
現代は、「職業」としての「科学者」が溢れている時代だ。大学/研究所に所属する人々のみならず、企業で研究開発に従事する人々も多かれ少なかれ「科学者」と呼べるだろう。そのような「職業としての」科学者が増えた事で、科学の進歩の度合は明らかに早くなった。まさに日進月歩といっていい。だが、一方で、今のようなあり方が問われているのも確かである。現代の科学者は「他人の金」で研究をしているわけだが、それに対してどんな見返りをしているのだろうか?見返りなど考えずに自分の好きな事をしているだけではないのだろうか?見返りの無い支出は永遠には続かないだろう。「職業人」としての「科学者」もちょっとだけそういうことを考えて欲しい、とこの本を読んで感じた。まあ、自分がもっとも「職業的科学者」なのだから、他人事では無いのだけれど。
技術と経済1997年7月号掲載
朝日選書/朝日新聞社
1997年4月25日初版発行
386頁/低下1900円(税別)
著者 クリストファー・ストリンガー/クライブ・ギャンブル
訳者 河合信和
評者 田口善弘
ネアンデルタール人、という名前を聞いた事が無い、という読者は少ないのではないだろうか?それでいて、もし、自分の子どもかなんかに「ネアンデルタール人って何?」って聞かれたら、答えに窮する、というのが大半ではないかと思う。「知ってるつもり」というテレビ番組では無いけれど、知っているようで知らないネアンデルタール人について最近の研究の成果を、研究者自ら書き下ろした意欲作が本書である。ネアンデルタール人、というと「人類の祖先」と思っておられる方も多いかと思うが、最近は旗色が悪くて、「現生人類の直接の祖先であるクロマニヨン人に滅ぼされた劣った原始人」という判定が下されつつあるようだ。が、著者らは、ネアンデルタール人がある意味で「劣った存在」であることを学術的に立証しながらも、「それは優劣の問題ではなく異質かどうかという問題に過ぎない」というスタンスを崩さない。価値判断から中立でありたい、という学者の良心、というわけだ(ほんの一世紀かそこらまえに、ヨーロッパ人が人種的に一番優れている、と『科学的に』証明しようと努力する事が例外で無かった事を思い起こそう)。
しかし、アジア人、である僕から見ればそれも所詮は人種差別の変奏曲に見える。ネアンデルタール人はヨーロッパ圏にしか存在しなかった。そのため、ネアンデルタール人が人類の祖先だ、と言っていた時は「ヨーロッパ人は人類の中でもっとも歴史の古い人種」という意味で使われ、クロマニヨン人に負けたとなると今度は「劣った人類を駆逐したのは現在のヨーロッパ人の直接の祖先」となって、どうころんでもヨーロッパ中心に過ぎないのだ。いずれ、未開拓のアジアの古人類化石が発掘されれば全てが変わる可能性があることを忘れるべきでは無いだろう。
本書の訳はあまり良く無く、また、内容も教科書並に事実の列挙である。これが「選書」に含まれたことがむしろ驚きだ。「人間の起源」に関わるネタだから多少難解でも売れる、と踏んだのだろうか。同じネアンデルタール・ネタなら、サイエンスライターが書いた「ネアンデルタールの謎」(ジェイムズ・シュリーヴ著 名谷一郎訳 角川書店、2000円)の方が数段読みやすいのは否定できない。まあ、本書の方がずっと勉強にはなるけどね。
技術と経済1997年6月号掲載
----アインシュタインが残した謎とパラドックス-----
早川書房
1997年1月20日初版発行
434頁/定価?円(税込)
著者 ポール・デイビス
訳者 林 一
評者 田口 善弘
ちまたには「科学啓蒙書」が溢れているがおもしろいものは少ない。中でも相対論/宇宙論関係は枚挙に暇が無い。知合いの科学出版の担当の編集者に説によると「何回読んでも解らないから」だそうである。
本書もまた、その点では極めつきの一冊と言えるだろう。なにしろ、著者自ら、「本書を書き終えて前よりいっそう混乱した」とのたまっているからだ!
といっても、この本は決していい加減な本ではない。「ウラシマ効果」で有名な相対性理論、「トンネル効果」で有名な量子力学など、奇をてらった部分ばかり取り上げられがちな現代物理学の本当の意味を「時間」とのからみにおいて正統的に解説しよう、という硬派の本だ。
いくつか結論を言おう。例えば、「あなたの未来は私の過去」。「宇宙の始まりには始まりが無い」。「時間は後向きに流れることができる」などなど。どうだろうか、よくわかっただろうか?いや、やっぱり、著者の狙い通り、もっとこんがらがるのが関の山だろう。
それでも、本書を読めば、「時間」というものが我々が思っている程確固たるものでは無い事が解って来るだろう。それどころか、この世には時間なんてものは全く無く、全て幻想かも知れない、とまで著者は示唆している。しかも、これが「トンデモ本」の内容ではなく、れっきとした現代物理学と矛盾しない(少なくとも、現在のところは)結論だというのだから恐れ入る。)
著者は最後に21世紀に向けて解かれねばならない難問を12個あげている。ボーッとしている間にアインシュタインが相対論を提出してから1世紀が経とうとしている。今世紀はアインシュタインが考え出した相対論という革命をいかにして終らせるかが物理学のテーマだったと言っても過言ではない。21世紀まであと残すところ数年の現在、この革命を今世紀中に終らせる望みは殆んど無いだろう。来世紀にはこの「未完の革命」(これは原書のサブタイトルでもある)は解決するのだろうか?願わくば僕が死ぬまでには完結して欲しいものだ。
技術と経済1997年5月号掲載
ジェイムズ・シュリーブ著 角川書店
定価2000円(税込み) ISBN4-04-791254-9
今の通説では、ネアンデルタール人は現生人類との生存競争に破れて絶滅したことに
なっている。なぜならば、彼等は、誰しも思い浮かべるように、いかにもサル然とし
た毛むくじゃらの半裸の遅れた「原始人」だったから。しかし、本書の中では、彼等
は「入浴してヒゲを剃り、今風の服を来れば地下鉄に乗っていても誰も気付かない」
というほど人間に近かった存在として描かれている。実際、現生人類が持っていてネ
アンデルタール人が持っていなかったものはほとんど無いらしい。石器はおろか、陶
器、更に言語さえ持っていた可能性がある、という。それほどまでに優れていた彼等
が、人類に負けてしまったのはなぜなのか?それが、この本の主題だ。
サイエンスライターである著者の仮説はこうだ。現生人類はコミュニケーションに強
い関心を持っていた。それに対し、ネアンデルタール人はコミュニケーションにまる
で興味が無かったようだ。この情報交換に関する差が技術の進化の速度に決定的な差
を及ぼし、それゆえ、彼等は生存競争に敗北したのだ、と。
もし、この説が本当なら、人類は「繋げられる(=WIRED)こと」をそんなにも昔から望
んでいたことになる。そして、その欲求を通じた技術革新でつい数万年まえまでその
辺を濶歩していた兄弟とも言うべき身近な存在を絶滅に追いやった、例え、意識的で
なくても。
我々は、今、数万年の時を経て、再び「繋げられた(=WIRED)」世界による革命の時を
迎えようとしている。これほど、長い時を経ても人類はまったく変わっていない、と
いうわけだ。つながりたい、と言う欲求。これこそが人類の本質かもしれない。この
「二度目の」革命は今度は我々になにをする力を与えてくれるのだろうか?ねがわく
ば、今度は、何かを滅ぼす以上のことをしたいものだ。二度目、なのだから。
ワイアード1997年4月号掲載
---ガーフィールドとインパクト・ファクター---
インターメディカル
1996年10月25日初版発行
220頁/定価2000円(税込)
著者 窪田 輝蔵
評者 田口 善弘
技術と経済の読者諸氏ともなると、いわゆる「学術的な研究」というものに従事したことがある方も多いだろう。本書はそんな「学術的な研究」とは何かということを科学しようとした人物の人生を中心にまさに「科学を計る」ことは可能かどうかを論じた書物だ。
科学、というとなんとなく客観的で価値中立的な営みの様に思えるかも知れないが、実態は全く逆で「研究の評価」ほど難しいものは無い。一世を風靡した研究があっという間に忘れさられるかと思うと、誰もかえり見なかった研究が長い時間の後に再発見されることもある。あるいは、研究発表直後から一貫して大きな影響力をもち続ける研究もある。研究の評価は、微妙で難しいものでありながら、それにも関わらず、何か普遍的な真理に基づいて価値が決まると皆信じているような、まさに芸術の評価の様に困難で主観的な代物なのだ。
サイエンス・サイテイション・インデックスとか、インパクト・ファクターとか、被引用率とかいう雑誌や概念を耳にしたことがおありだろうか?こういうものを普及させたのは、一人本書の主人公であるガーフィールドなる人物の功績だ、ということにまず驚かされる。これらは一般にはちょっと高級な検索技術、程度の理解で受け止められているが、実際に彼が目指したのは、科学の「中味」を理解すること無く、定量的に科学の「構造」を理解できないか、という壮大なる試みだった。この無謀な試みで彼が採用したのは「引用」という行為である。論文の引用関係を見れば、何が重要な研究か、いい研究をしているのは誰か、あるいは、最先端の研究は何で、どの研究とどの研究が深く関係しているかを「研究の内容が解らなくても」知ることができる、という仮説を打ち立てたのだ。
この仮説自体には、いろいろ賛否両論があるだろうが、しかし、科学者以外の人間が「科学の価値」を判断できる、という可能性を実証した功績は少なくないだろう。数字の一人歩きは迷惑だが、それでも、社会の側から見て何がいい研究かを判断できる、ということは科学者の側にも社会に対する責任感を芽生えさせるきっかけになるかもしれない。まさに、時代の要求にあった技術だったと言えるだろう。それがたった一人の人物の努力の成果だったことを教えてくれたこの書物は広く読まれてしかるべき書物と言えるだろう。
技術と経済1997年4月号掲載
早川書房
1988年10月31日初版発行
上・296ページ・下・310ページ/定価各1700円(税込)
著者 スティーブン・J・グールド
訳者 渡部 政孝・三中 信宏
書評の宿命としてどうしても新しい本を紹介しがちだ。しかし、古い本の中にだっていい本はある。前にこの欄で「常に新しい本をだし続けないといけない出版界の体質」批判をしたことがあるが、これでは書評という作業も同工異局になってしまう。たまには古い本も紹介しよう。
勿論、絶版になったような本では困るが、その点、本書は10年近く前に出版された本であるにも関わらず(原書の出版から10年以上)、内容は未だに新鮮だ。著者、グールドはハーバード大学に勤務するバリバリの現役の研究者だが一方でナチュラルヒストリーマガジンにもう20年以上に渡って、毎月かかさず、常に最先端の内容に基づいた、かつ、一般の人にも十分楽しめるエッセイを連載し続けるという離れ業こなしていることでも知られている。This
View of
Lifeと題するこのエッセイはある程度本数がまとまる度に単行本として出版されてきたが、これはその3冊目にあたる。
題名からも推察されるように、グールドの専門は博物学だ。博物学、というとすぐ思い出されるのはファーブル昆虫記に代表されるような観察記で、「いろいろ面白かったけど、だからなんなの?」という感じになりがちだが、グールドはそこを「進化」
という縦糸でつなぐことによりうまく避けている(This View of
Lifeというのは「進化からみた生物」ということらしい)。進化、という観点からす
れば、全ての生物は皆兄弟、グールドの視点は常に人間の独善性の批判の視点を失わ
ない。例えば、シマウマって「黒地に白縞」なのか「白地に黒縞」なのか考えたこと
があるだろうか?ちなみにアフリカ人(=肌が黒)は前者だと思っているらしい。後
者だと思い込むこと自体に既に白人至上主義が見え隠れしている(生物学的な正解は
本書をどうぞ)。
エッセイ集の最初の2冊、「ダーウィン以来」と「パンダの親指」は一昨年、昨年、
と引き続いて早川文庫に降りた。単行本の方もこれ以後「フラミンゴの微笑」、「嵐
の中のハリネズミ」と続き、新刊も昨年出た。まだまだ、グールドの活躍は続きそう
だ。とはいっても、さすがに20年も続くとマンネリ化はまぬがれない。僕は一冊目
の「ダーウィン以来」が一番面白かった。文庫の方が安いし、まず、これから読み始
めたほうがいいかもしれない。
技術と経済1997年3月号掲載
朝日選書
1996年11月25日初版発行
312ページ/定価1500円(税込)
著者 中島 秀人
「◯◯に消された男」というのはありがちなタイトルだ。決してスパイ小説、の話ではなくて、本書の様な科学者の伝記的著作においてすらまれなものではない。例えば、昔、ダーウィンに消された男、という本があったが、これはダーウィンと同時期に自然淘汰学説を唱えながら、歴史に名を残せなかったウオーレスという人物の話だ。
ウオーレスがダーウィンに比べて、もともと無名であり、それゆえに、無視されていったのに対して、物理学者であるフックとニュートンの相剋はちょうどサリエリとモーツアルトの確執を思わせる。存命中は年上のフックの方が有名だったのにフックの死後は逆転してしまったからだ。
映画、アマデウスの冒頭シーンには老いさらばえたサリエリが、自分の音楽は全て忘れ去られたのにモーツアルトの音楽はしっかり人々の心に残っているのを確認する悲しい場面があるが、フックの業績もまた、フックの死後、ニュートンが晩年に有名になるにつれ忘れ去られていく。筆者は、この欄でも何度も取り上げたような「社会との関わりの中で発展する科学」という新しい科学史の手法を用いて、なぜ、フックが忘れ去れたのかをそれなりにスリリングに描いていく。
ただ、ちょっと、気になったのは、社会と科学の関係を強調するのは結構だが、そういう「科学史」の傾向自体、社会の影響化にあるのであり、社会との関わりで科学を見る、という視点自体、社会との関わりの中で生じてきているという観点があまりにも乏しいことだ。冒頭で「理学と工学の違い」などをとくとくと述べているところなど、ちょっと、陳腐ですらある。こういうことをいまさらの様に強調するのは著者が理学部的環境にどっぷりつかってきたことを暗に示していることに他ならない。科学と社会、の関わり議論しようというのにそれでいいのだろうか?また、日本では理学より工学が低く見られている、という認識から現実を常に見据えたフックの見直し論へとつなげていくのだが、現代における理学と工学の分析の部分があまりにも性急で浅薄であり、結論に共感できないのが返す返すも残念だ。
それでも、フックという世界的にも研究が進んでいない人物の研究としては最先端を行く内容の様だ。読んで損はないだろう。
技術と経済1997年2月号掲載