砂時計の七不思議

粉流体の動力学

はじめに

僕は生まれてからずっと、東京に住んでいる。といっても、子どもの頃住んでいたのは東京の田舎だし、今住んでいるのは川崎市だ。まあ、「東京通勤圏」に住んでいる、という方が正しい。東京は便利なところだけど、いろいろ辛いことがあって、例えばその一つとして通勤地獄がある。人間の常識では考えられないような密度で人間を箱に詰め込んで、一時間以上に渡って運ぶという非常識なことをやらざるを得ない。それでも足りなくて、列車の本数を増やしまくり、ラッシュ時は数分おきに電車が走るということになる。さて、それでも足らないとなると、どうするか。いろいろな手がある。例えば、JR山の手線では座席を折り畳み式にし、ラッシュ時は座席をたたんで人が立てるスペースを広くして、もっといっぱい乗れるようにした。その他には、これほど混雑してくると、人の乗り降りにかかる時間が馬鹿にならなくなる。そこで、在京の私鉄のA社とB社では人が素早く乗り降りできるようにドアを改良することにした。素早く乗り降りできるようにするためには個々の車両の出口を増やすか大きくしてやれば良い。A社はドアの数はそのまま(一車両あたり片側四つ)で一つ一つのドアを大きくした。B社はドアの大きさを変えずにドアの数を増やした(片側五つ)。なんとなく、どっちでもいいように思える。ところが、結果はB社はうまく行って乗り降りの時間が短縮されたが、A社はうまくいかず、むしろ、乗り降りに時間がかかるようになってしまった!全く不思議な話しだ。

もし、これが満員電車ではなくて統制のとれた軍隊とかだったらこんなことは絶対に起きない。降りる順番をあらかじめ決めておいて、ドアの幅に丁度合うだけの人数ずつ横にならんで次々と乗り降りすることにすれば、ドアの幅が広くなっても乗り降りが早くならない、などということはあり得ない。満員電車ではこの様な意志の疎通がなく、個々人が勝手にドアに向かって突進する。この様な状態はどうやって研究すれば良いだろうか。僕の好きなSFにアシモフの「ファウンデーション・シリーズ」があるが、その軸となるのはアシモフが創出した「心理歴史学」という学問だ。個々の人間がどのように振舞うかは予測できないけれど、何兆という多数の人々の集団的な行動なら予測できる。アシモフが舞台とした遠い未来では宇宙全体に人類が広がっていてそれこそ何兆、何十兆という人間がいる。その集団を気体を個々の分子の集合として扱うようにして扱えば、未来の挙動を予測できるというものだ。勿論、僕らはそのような学問を持っていない。でも、お互いに意志疎通のない群衆を気体のように粒子の集団として扱うのは案外、いい近似ではないだろうか?

非常に大胆な仮定だけど、人間を粒粒にしてしまうというのはどうだろうか。穴の空いた箱の中にぎっしり粒を詰め込んでおき、箱に穴を開けて無理矢理押し出すとする。穴の面積の総和は一定として大きい穴を開けた方がいいか、小さい穴を多数個開けた方がいいか?この問いなら答えられるだろうか?

このような粒粒が多数個集まったものを「粉粒体」という。この粉粒体がいっぱい集まった時にどのような振舞いをするかというのがこの本のテーマである。普通、粉粒体というのは砂、食塩、米のようないわゆる粒々のことをいう。こういうものがいっぱい集まるといろいろと不思議な振舞いをする。だからといって、べつにこの本で米粒の解説をしようというわけではない。満員電車の例からも解るようにいろいろなものを粉粒体と見ることができる。では、どんなものが粉粒体とみなせるんだろうか。

まず、同じようなものがいっぱい集まっていなくてはいけない。ただ、あんまりいっぱい過ぎてはいけない。どのくらいだといっぱい過ぎるかというと、まあ、ひと雫の水の中に含まれている分子の数なんていうのではもう、数が多過ぎる。ひと雫の水の中には大体$10^{23}$個(アボガドロ数)の分子が含まれている。これはどのくらいの数かというと、一兆の千億倍位の数。粉粒体というときはせいぜい数百個から十億位だろうか。この「うんと小さくてはいけない」ということは大切である。あんまり数が多いと、個々の粒子は見えなくなってしまって、全体が一つの物に見えてくる。考えてみれば、僕らの身の回りにある物は水だろうが、空気だろうが、石ころだろうが、皆、分子という小さな粒子の集まりだ。でも、それを普段意識することはない。ここまでいかず、全体として、一緒に運動するけれど、決して個々の粒子が見えなくなるほど小さくはない、というものを粉粒体という。そういう意味では満員電車に詰め込まれた乗客も粉粒体と見ることができる。

では、粒子の数があまり多くなければ個々の粒子はうんと小さくてもいいのだろうか?例えば、空気の分子が百個集まったら、これは「粉粒体」だろうか?空気の分子程小さいと今度は空気の分子の個々の運動が粒子の大きさに比べて早過ぎて、全体として一緒に運動しているようには見えなくなる。室温くらいの温度では一秒間に百メーター位の速度で動いている。これは空気の原子が人間の大きさだと思うと、ゆうに光より早く動くことになるわけだから、個々の粒子が勝手気ままにガンガン飛び回っているばかりで、全体として一緒に動いているようにはとてもみえない。だから、個々の粒子の絶対的な大きさもあまり小さくてはいけない。

結局、粉粒体の粒子の大きさには二つの制限があって、

(一) 全体の大きさ(例えば容器)に比べて粒子の大きさが小さ過ぎない。

というのと、

(二) 個々の粒子の大きさが粒子の速度に比べて小さ過ぎない。

というのである。

逆にいうと、この条件を満たせば、砂や米や食塩に限らず、いろいろなものを粉粒体と見ることができる。例えば、宇宙空間の星、などというのは玉がたくさん集合したものだから、これを粉粒体と見るのはあながち間違いではない。実際、天文屋さんの一部の人達は粉粒体自体の研究に興味を持ち始めたようである。それから、ちょっと、満員電車と似ているけれど、高速道路を走る車だって、車という「粒」がいっぱい集まって流れを作っているわけだから、粉粒体と見れないこともない。

こんな風に「粉粒体」と言ったって、単に砂や食塩や米粒の話しに留まらない。そういうことも思い浮かべながら想像力をたくましくして読んで頂ければ幸いである。