紙切れに価値がある理由
アトムからビットへ-------それでも貨幣は不変か?


ただの紙切れに過ぎない紙幣を我々は普段、何の疑問も持たずに使っているが、その信頼性の根拠は一体どこにあるのだろうか。来るべきデジキャッシュにその信頼性はいかにして継承されうるのか。「円高」「バブル」、至極当然に受け止められてきたこれらの事象も「貨幣」の意味を知ることで説明がつく。「貨幣とは人間関係の物象化」と語る京都大学人文科学研究所の安富歩(やすとみ あゆむ0は物理学における複雑性研究【*1】の動きと連携しつつ、経済学の再構築を目論む経済学者だ。そんな彼に物理学者、田口善弘が疑問を投げかけながら、ネット上での「貨幣」の可能性を考察する。

田口(以下T):タイトルに述べられている疑問ですが、どうしてこれが問題になるのか今一つ理解できません。私が1万円所持していて, 商店に行き, 1万円の商品を購入しようとしたとします。そのとき商店が日本円で決済することを求めながらその対価を1万円札で支払うことを拒否したら罰せられると思いますが。つまり, 貨幣の額面は国家が決めているのではないでしょうか ?
安富(以下Y):その通りです。貨幣の額面は国家が決めています。しかし, 貨幣の「価値」を国家が決めることはできません。例えば, 国家が「この1万円札は今日から10万円の価値を有することに定める」といったらどうなりますか ?

T:10万円の買い物を1万円札でできるようになるだけです。

Y:そうです。すると, 1000万円の貯蓄をもっている人は突然, 1億円の買い物ができるようになるわけです。その結果, 例えば昨日まで家をもてなかった非常に多くの人が家を購入しようとするでしょう。当然, 全員に行きわたるだけの家はないのであぶれる人がでます。すると, もともと家を購入するための1億円を所持していた人は水増しされて10億円の価値になった所持金を使ってでも家を購入しようとするでしょう。

T:そういう可能性もありますね。

Y:その結果, 家の価格は10億円になります。すべての消費財に対してこれと同じことが起きますから結局物価が10倍になり, 1万円札1枚で購入できる消費財の量は変わりません。ですから, 貨幣の「価値」は国家が決めているものではないのです。

T:それでは, その「価値」, 例えば「1万円は400円のハンバーガー25個が買える」という価値は不変だということですか ?

Y:いえ, 国家が決められないというだけで, 不変ではありません。ハンバーガーが値上がりして500円になれば, 1万円札でハンバーガーが20個しか購入できなくなります。ですから, 1万円の「価値」は不変ではありません。

T:それは定義の問題では ? 例えば, 「ハンバーガー25個分を1万円」と定義すればいいだけでしょう。つまり, 内在的な「価値」が貨幣の額面になるように定義しなおせばいいと思うのですが。

Y:内在的な「価値」とは何ですか ?

T:例えば, マルクスによれば消費財を作るのに必要な労働時間のことですから, 「(時給400円の人の)労働時間25時間分を1万円にする」と定義すればいいわけでしょう ?

Y:そうでしょうか。もしそう定義すると, GNPの国家間格差をどのように説明しますか ? 例えば, マレーシアの一人当たりのGNPは日本の100分の1 程度ですが, そうすると, マレーシアの人は日本人の100分の1くらいしか働いていないことになります。

T:それは詭弁ではないでしょうか。マレーシアではハンバーガー, あるいはそれに相当するものが100分の1(例えば, 4円)しかしないのではないですか ? 時給も100分の1ということです。だから矛盾はありません。

Y:国内で話がとどまっていればそうでしょう。しかし, 日本の貧乏な学生が発展途上国に, 例えば, 中国に行ったらどうなりますか ? 100万円ももっていけば大富豪です。しかし, この学生は中国人が人民元で100万円稼ぐためにしなければならない労働の数十分の一しか働いていません。おかしくないですか ?

T:それは, 日本の方が経済的に豊かだからでは ? だから, 日本のお金の方が価値がある。もし, 中国人が日本に来て働けば, 学生と同じだけ金持ちになれます。

Y:でも, そうすると, 「貨幣の価値を労働時間で測る」という簡単な原理が壊れます。

T:ああそうか。また, 分からなくなった。では, 貨幣の価値を決めているのは何でしょうか ? 国家間の格差だと思っていいのですか ?

Y:別の例を考えましょう。最近, 廃止されましたが, 昨年までは中国に2種類の貨幣がありました。「人民元」と「兌換元」(ルビ:だかんげん)です。

T:人民元は外貨と両替できず, 兌換元はできるというものですね。

Y:そうです。公定レートは人民元と兌換元が1:1ですが, 実勢レートはそうではなく, 兌換元の方がずっと価値が高く取引されていました。

T:それは当然でしょう。兌換元は外貨と交換可能だから人民元より価値があります。

Y:しかし, 第一に一般中国人民は兌換元をもっていても外貨と交換することは簡単ではないし, そもそも, 自由に海外に行けるわけではないので外貨をもっていてもほとんど意味がありません。第二に, 人民元と兌換元または外貨は直接自由に交換できないのですから, 人民元と兌換元または外貨との間に交換レートが成立するわけではないのです。では何が人民元と兌換元の相対価値を決めているかというと, 中国には兌換元でしか買い物ができない店があり, そこでは, 人民元では買うことができない物をいろいろと買うことができます。これが人民元と兌換元の中国人民にとっての差です。

T:そうすると, 購入できる消費財の種類の多さが貨幣の「価値」に関係しているということですか ?

Y:そうです。ある貨幣の価値は内在的な労働力の量で決まっているのではなく, その貨幣がもっている「選択権」の多さで決まるのです。このように考えると国家間の貨幣の価値の差も説明できます。日本円は中国元では買えない多くの種類の消費財を購入することができます。その結果, 日本円は中国元に比べて価値があることになります。

T:しかし, それはどのようなしくみで貨幣の価値に反映されるのですか ? 日本円でしか日本の物が買えないというのは単に歴史的な事実でしかありません。例えば, VHSビデオデッキは日本でしか生産していませんが, 欧米のマルクやドルで購入することができます。一方, アメリカは日本人が欲しいと思うものをそれほど生産していません。まあ, コンピュータくらいですか(笑)。でも, ドルやマルクで日本の製品を買うことはできます。ある貨幣ではビデオデッキが買え, また, 別の貨幣では購入できないという差異を決めているのは何なのでしょうか ?

Y:国際通貨の場合は, 選択権の多さによって決まる価値のほかに「みんなが認めているかどうか」という価値が加味されるようになります。経済力的には過去よりもずっと衰えているアメリカのドルが, 依然として世界共通の通貨として認められているのは, 多くの人がそれを認めているからであり, これは過去にも起きたことです。19世紀末に当時の大国イギリスは新興国アメリカやドイツに激しく追い上げられていました。20世紀初頭にはすでに追い抜かれていたともいえます。にもかかわらず, その後長い間, ポンドは国際基軸通貨であり続けました。また, 産業が衰えた後も, ロイズ保険の例に見られるように長いあいだ金融の中心であり続けたのです。現在の円高もこの文脈で理解できます。日本の経済力の発展に伴い, 日本は世界の国々が欲しがるような製品を多く生産するようになり, 円は高い「選択権」をもちました。その結果, 円の「価値」が高まり, また, 国際基軸通貨として認められるようになりました。いったん国際通貨として認められるようになるとさらに「選択権」が飛躍的に増大します。その国で生産していない物であっても生産国の通貨と交換することにより, 購入することができるようになります。この結果, 選択権の幅に「ジャンプ」が起き, それがまた, 円の価格を押し上げるという結果を産み出します。

T:「選択権」の多寡がどのように貨幣の価値に反映されていくということですか ? その貨幣の選択権の多寡は個々人には見えないはずですが。

Y:簡単な数理モデルを考えて, それを計算機の中で動かすことによりこの過程を説明してみましょう。ここに50人の人間と50種類の財を用意します。最初は50種類の財の間には差がなく, 貨幣はありません。各人は「欲求」をもっています。50種類の財のうち, どれかが欲しいと願っているわけです。他者がそれをもっていれば, 欲しい, と「需要」するわけです。しかし, 相手が欲しいものを自分がもっているとは限らないので物々交換はなかなか成立しません。

T:そうでしょうね。

Y:しかし, ここで「みんなが欲しいと思うものは自分が欲しくなくてもとりあえず手に入れておけば、自分の欲しいものをもっている人に出会ったときにそれと交換することにより交換できる。だからそういうものはとりあえず、手に入れておけ」とみんなが思ったらどうなるでしょうか?

T: どうなりますか?

Y:50種の財のうち、どれかがたまたま「みんなが欲しいと思っている」と思われたとしましょう。もし、一旦そういうものができれば、それを後の交換で本当に自分の欲しい消費財と交換するためにみんなが手に入れようとします。そうすると、それがますます「みんなが欲しがっている」という認識を広め,「それをもっていればみんなが欲しがる。みんなが欲しがるものをもっていれば自分が好きなものと交換できる」と言う認識を高めるのでますます需要され.....

T: 要するに、ある特定の財をみんなが欲しがるのですね?

Y:そうです。「あとで自分の欲しいものに交換する為にもっておこう」というものは何でしょうか?

T: 「貨幣」ですね。

Y: それはどうして欲しがられるのですか?それをもっていると多くのものととりかえられるというただそれだけの理由で、つまり、選択権が大きい、という理由でみんなが欲しがるのではありませんか?この選択権が多い、という事が他の消費財から貨幣を区別し特別なものにならせるもの、ただの紙切れにすぎない一万円札に一万円の価値を付加する本質なのです。

T:わかりました。でも、そんな原理で本当に貨幣ができるのですか?

Y: 先程の計算機の例で, 「みんなが欲しがるものをもっていれば自分の好きなものを交換できる」とのルールを加えてみます。ここで、個々人は当然、全員と同時に会話できず、取り引きを繰り返して行くうちに「みんなが欲しがるものが何か?」を学んで行きます。ここでもし、過去の人々のうち13人以上の人が欲しがっていればこれは「みんな」が欲しがっているものであるとみなして自分は要らなくてもとりあえずとっておこうと思う事にすると、そう思われた消費財が自動的に「貨幣」になるという結果が出ます。この13という人数は12でも11でも構いません。つまり、この数が13以下ならいつも貨幣が出現するのです。消費財のうちどれかをあらかじめ外部から「貨幣」として設定しておかなくても, 「みんな」≦13人という条件で計算機を動かしていくと, 計算機の中の人々は, ある消費財を「貨幣」として扱い始めるのです。これは物理学では「自発的対称性の破れ」という言葉で知られている現象です。貨幣が出現するまでは全ての消費財は対等ですが, いったんどれかの消費財が「貨幣」になってしまうと, その消費財は「貨幣」という特別な地位を得るようになります。もともとは全ての消費財が対等であるという「対称性」があったわけですが, この対称性が自発的に(システムの外からの影響ではなく, システム自身の内在的な性質によって)破れて貨幣が自動的に出現するので, これを「自発的対称性の破れ」と呼ぶわけです。

T:そうすると, 貨幣というのは人々の信念に支えられた存在ということでしょうか。不思議な話ですね。でも, 信念に支えられているだけでは非常に弱いものではないのですか ? 貨幣はそのように不安定な物なのでしょうか ?

Y:そこが大切なところです。人々の信念にあたるものは先程のモデルでは「『みんな≦13人』以上の人が欲しがるものは貨幣になる」という部分でした。この部分に「揺らぎ」を入れてみましょう。つまり, 取引がうまくいかなかったので, 自分のもっている「貨幣」の定義に疑いが生じ, 試行錯誤をするようになると考えてください。自分の欲しいものが手に入らなかった人は心が揺らぎ, 「13人」の13という部分を14にしたり12にしたりしてみます。すると, 非常におもしろいことになります。「揺らぎ」を入れる前は一度「貨幣」として選ばれた財はそのまま「貨幣」であり続けましたが, あるとき突然, 「貨幣」でなくなるときが来るようになります。

T:なぜですか ?

Y:一度, 「貨幣」が成立してしまうと, 「信念」の部分, つまり「○人以上の人が貨幣だと思っているものを私も貨幣とみなそう」という「○人」の人数が多いほうが意識の中で有利になります。この数を少なくしすぎると, 本当は貨幣でないものを「貨幣」と誤認して抱え込んでしまい, 交換に使えず, 損をすることになります。その結果, 少しでも有利な「貨幣」に近い財を選択しようと「信念」の部分をどんどん厳しくしていくのです。ところが, 個々人はどの程度よいものがあるか, つまり, 「貨幣」的な存在として最も流通している財が実際が何人に需要されているかを知りません。その結果, ありもしない「貨幣」, つまり実際には「貨幣」として流通している財は13人の人にしか需要されていないのに, 例えば14人とか15人の人に需要されている財を求めることになり, 個々人が「貨幣」とみなされていた財の受け取りを拒否するようになります。その結果, 「貨幣」の信頼は失墜し, ますます需要されなくなり, 「貨幣」としての地位が低下して, ついには「貨幣」でなくなってしまいます。これが, 「貨幣の崩壊」です。 これは, 例えば, 過去におけるポンドの国際通貨としての崩壊の一因であったと考えられます。また, バブル経済の時にもこれと似たようなことが起きたのではないかと思っています。「土地」や「証券」という物が一時的に貨幣化しました。つまり, 魚や車を買っても他の物と交換できませんが, 「土地」や「証券」をもっていると, あたかも貨幣であるかのように他の物(具体的には現実の貨幣を通してですが)と交換できるようになりました。この結果, 「土地」や「証券」の需要の高まりが生じ, 「みんなが欲しがるものは貨幣である」という原理によって, 擬似貨幣になり, 価値が高まったのです。しかし, 人々の期待が高くなりすぎ, 現実以上の価値を土地や証券に求めたとき, それらは貨幣としての地位を転がり落ちてバブルは崩壊したわけです。まあ, 先程のモデルはそこまで直接, バブル経済の崩壊のモデルになってはいませんが。

T:結局, 貨幣とは何なのでしょうか ?

Y:人間同士の関係性の物象化のようなものです。「貨幣は貨幣だと信じられているがゆえに貨幣である」ということです。それ以上でもそれ以下でもありません。一人ひとりの意思の「束」のような物が貨幣であり, それゆえ, 個々人の意思では変えられないので不変で強固な物にみえます。しかし, 一度, 人々の意思が個々人の関係性を通じて同じ方向へと揃えられたとき, 貨幣は突然に立ち現れたり消え去ったりするわけです。システムの中で生き物のように自成し自壊する, これが貨幣の本性なのです。


【*1】既存の物理学は物質を司る基本法則(量子力学や古典力学)や物質を構成する基本要素(原子や素粒子)の研究に血道をあげてきた。こういったやり方では,生物・気象・社会という現象は決して理解できないという反省から生まれた新しい物理のパラダイム。
インターネットの経済学 〜デジキャッシュの未来と展望〜

田口善弘

 安富氏の理論をインターネットに応用するとどうなるだろうか。安富氏は言う。「貨幣とは人間関係の束にすぎない」。現在, 徐々にではあるがインターネット上でもショッピング・モール+クレジットカードという形で商品流通が始まっている。しかし, クレジットカードという外的存在があるために完全に自立した流通形態とはいえない。インターネットの経済が成立するためには, すでに実験が始まっているデジキャッシュのようなものが成功しなくてはならないことは衆目の一致するところだろう。
 現在, デジキャッシュなどには, 政府の後ろ盾がなく(インターネットという世界の宿命上, 特定の政府が流通を保証するということ はあり得ないし, また, できないだろうけど), 資産の裏付けもない。よって一般的には「悪い冗談」としてしか扱われておらず, 本当に流通しうるかどうか疑わしいものと受け止められている。 しかし, 安富氏の理論によれば, 貨幣の価値は「選択権の幅」を反映することになるので「政府の保証」や「資産の裏付け」は二次的な要素であり, 最も重要な因子ではなくなることになる。つまりデジキャッシュが必要とされていることは選択権の幅を増やすこと, つまり, ショッピング・モール+デジキャッシュという形でしか購入できない商品をたくさん揃えることであろう。具体的には, 店舗や人件費を節約することによる低価格の商品供給, あるいは, 単価が小さいために流通が難しいもの(例えば, 各種コンピュータ雑誌で紹介されているような, アメリカでしか売っていないコンピュータ関連の便利グッズとか)から始めていくのがいいだろう。その結果, 人々がデジキャッシュを保持したい, と思うようになれば, 貨幣として, デジキャッシュ自体が需要されるようになる。そうなれば, 一般的にはデジキャッシュで購入する必要のないもの, 生鮮食料品や不動産のようなものもデジキャッシュで購入されるようになっていくであろう。 既存の貨幣に対するデジキャッシュの利点は, そのボーダーレス性にある。いわゆる国際通貨というものは, 実際には国際通貨でない。ドル, ポンド, マルク, 円という国内貨幣は擬似的に国際貨幣として扱われるわけだが, デジキャッシュは最初から, 国際貨幣としての性質を強くもっている。大きな国際取引にデジキャッシュが使われるようになれば, 為替差損のような不利益を輸出入企業が被ることもなくなる。つまりデジキャッシュが成功するためのもう一つの可能性は, 「専門職」が不在の国際通貨市場で, 主役の座を射止めることではないか。
 一方で, デジキャッシュの広範な流通は, 安富氏のモデルの中に見られたような自成と自壊のメカニズムをより露骨に出現させることになるだろう。デジキャッシュは政府の保証や資産の裏付けという実体的な価値をもたず, 安富氏が提唱する「人間同士の関係性の体現としての貨幣」「貨幣は貨幣であるが故に貨幣である」という本質そのものにほかならないのである。安富氏が計算機の中で作ってみせた,「貨幣の動力学」自体が, 実際にインターネットの中で現実化するならば, それがデジキャッシュの未来の姿かもしれない。どんなものでも手に入る夢の貨幣であると同時に, 明日は価値がゼロになりかねない悪魔の貨幣。この新しい貨幣を, 我々は使いこなしていけるだろうか ?
安富 歩
京都大学人文科学研究所助手。日本植民地経済史と複雑系を専攻。現在『「満州国」の金融史』(仮題)を執筆中。