情報ハイウェイも大渋滞 !!
物理学がさらけ出す憂うべきビットの世界
DIgital Highway Traffic Jam


20世紀, 人々の生活はモータリゼーションとともに飛躍的に向上した。そして21世紀, 情報ネットワークの発展は未知なる世界に我々を誘おうとしている。それぞれの「高速網(ルビ:ハイウェイ)」をもち, そのうえを“流れ”ていく車と情報。物理学の現場はこの“流れ”について各々に研究が進められてきたが, ここにきて意外な同一性が発見されのだ。「情報ハイウェイも渋滞する !! 」。この結果が意味するところとは。物理学の最先端からビットの世界を眺望し、来るべき21世紀を予見する。

words 田口善弘 Yoshihiro Taguchi

 の世には「ゆらぎ」【*1】というものがある。人間はゆらぎを嫌うものだ。たとえば, 列車の時刻表。世界に名だたるJRといえども決して正確に列車を運行することはできない。1分とか2分とか, そうでなくとも数十秒か数秒のずれは必ずある。もちろん, 平均の運行時刻は列車時刻表の通りなのだろう。だが, 本当はゆらぎの大きさ考慮して書くべきなのだ。


「9時5分発(±25秒) 東京行き」

 こんなことには意味がない。そう思われるかもしれない。数十秒の誤差など誰にも認識できないと。
 ゆらぎが小さいときは確かにそうだろう。だが, この世には平均の値ではなく, ゆらぎ自体が意味をもっているものだってあるのだ。たとえば, 宝くじ。300円の宝くじを購入していくら当たるか, というのは結果が出てみなくてはわからない。300円かもしれないし, 1億円かもしれない。そこには大きな「ゆらぎ」がある。宝くじを買うときにはこのゆらぎが問題になる。ほとんど当たる可能性のない, 1等賞を問題にするわけだから。

「年末ジャンボ宝くじ 1等+前後賞 1億3000万円」

 賞金の平均値は300円の宝くじなら140円か150円にすぎない。

「年末ジャンボ宝くじ 賞金140円(平均値)」

 と書いたらまず買う人はいないだろう。だが, この2種類の表記は単に「事実の半分を隠した」だけでまったく同じことの別表記にすぎないのだ。にもかかわらず, 意味することはまったく変わってしまう。「ゆらぎ」をいつも無視していいわけではない。
 とはいうものの, JRの列車時刻表の場合も, 宝くじの場合も, ゆらぎが大切か平均の値が大切かということがあまりにもあからさまである。常識で考えれば, 平均値とゆらぎのどっちを大事にするべきか誰にでもわかってしまう。こんなことを議論するのは無意味なことだ。だが, その中間の場合はどうだろうか。たとえば, バスの時刻表は ? ゆらぎを無視して平均だけを書くのが普通だが, これでいいのだろうか。ご存じのようにバスの時刻表はきわめて不正確で5分, 10分の遅れは日常茶飯事だ。それでも平均の到着時刻を表記して済ませているがこれでいいのだろうか。

出現した「逆比例の法則」
 から20年ほど前に, 武者利光(東京理科大学教授)という物理学者が大学の前を走っている車の流れを計測してみた。
 武者はゆらぎの研究のパイオニアで, 講談社・ブルーバックスから『ゆらぎの世界』という素晴らしい入門書を上梓したことでも有名だ。武者は当時, ありとあらゆるもののゆらぎ(それこそ, 音楽から絵画の色のゆらぎまで)を測りまくっていた。それまでの科学では無視されがちだった「ゆらぎ」自身がいろいろな場合に大切であることを見い出しつつあった武者は, 車の流れのゆらぎにも注目したのである。
 読者のうちのどれくらいの方が, 車の流れをボーッと眺めたことがあるだろうか。無限に時間があったように思える学生時代とか, 記憶の彼方に過ぎ去ってしまった幼い日々に, 道端にしゃがみ込んだり, あるいは歩道橋の欄干にもたれかかって, 道を過ぎゆく車を見るともなく見ていた記憶があるのではなかろうか。そういう経験のある方はそのときのことを, そういう経験がない方はまだ遅くはないから, 今からでも道端に出て車の流れを見ていただいてもいい。
 誰もすぐ気がつくのは「車の流れは一定ではない」ということだ。あるときは続けて何台も車がやってくるかと思うと, その後は長いこと1台の車もやってこない。「そんなことは当たり前だ。車を運転している人々は, 皆, 自分の都合で行きたいところと行きたい時間を決めているのだから, いつもいつも同じ間隔で車がやってくる方がおかしい」という意見があるに違いない。車の流れがバラバラなのは, 個々人の意思がバラバラなのを反映しているだけだというわけだ。そうかもしれない(あるいは, しれなかった)。
 だが, 武者が見つけたのは何とも奇妙な性質だった。


「車がやってくる時間間隔の頻度は時間間隔の2乗の逆数に比例する」(車間距離の法則)

 つまり, こういうことだ。車がやってくる時間間隔を数えよう。1分, 2分, 35秒, 5分, 5秒……。そうすると, 車が1台やってきた後に, 次の車が「1分」でやってくるような観測例の数は「2分」でやって来る観測例の数の「2分割る1分(=2)の2乗=2×2=4」で4倍だけ多い, ということだ。車のバラバラな流れの理由が, 個々人の意志がバラバラだからということならば, 「個人が選ぶ前の車との(時間)間隔の分布が間隔の長さの2乗に逆比例」するように個々人の個性がバラついている必要がある。これはありえることだろうか。
 答えは2通りある。

1.本当に個性の分布が「逆比例の法則」に従っている。

2.人間の意思とは無関係に(人間には逆えない法則性によって)逆比例の法則が出現する。

 物理学者は心理学者ではないから, 1の立場はとらない。本当かどうかはともかく, 2の立場をとろうとする。だが, これはこれで非常に大きな問題だ。人間は誰しも自由意思で行動していると思っている。もし2が正しければ, 人間は車の走行間隔さえ自分の思い通りにはできないことになる。
 物理学者による「人間の意志を超えた法則性」の研究は内外で「計算機モデルの構築」という形でここ数年さかんに行われるようになった。現実の車の流れで実験をするわけにはいかないから, 計算機中の「仮想現実」の世界に車を走らせて「実験」するわけだ(実際には「仮想現実」と呼ぶにはあまりにもお粗末なプログラムではあるが)。そして, この「仮想現実」の中で現実の車の流れの特徴が再現されれば, 車間距離の法則が「人間の意思を超えた法則性」から生まれたということを示したことになる。

この法則からは逃れられない ?!
 通モデルを研究している物理学者の数は多いが, その中でも菊池誠(大阪大学理学部物理学科助教授)は簡単なモデルでこの「車間距離の法則」を再現できることを示した一人だ。フィリップ・K・ディックの小説を訳したこともあり, 「新しい物理」を目指している物理学者の一翼を担っている彼が作ったモデルを具体的に書くのはかなりややこしい。が, 要するに,

「お互いが異なった速度で走ろうとしているが, 前に遅い車がいるとブレーキを踏まざるを得ない」

 ということさえ入っていれば「車間距離の法則」はだいたい再現できることがわかったのだ。彼のモデルの中には個人の「意思」は明示的に含まれることはない。ただ, 「前の車と衝突しないようにブレーキを踏まなくてはならない」という物理的な制約と「自分の好き勝手な速度で走りたい」という希望のせめぎあいがこの「車間距離の法則」を作り出すのだ。人間にいくら知性があってもお互いに面識のない不特定多数が集まったときに現れる法則性からは逃れられないのだ。
 20世紀はいわば, 交通の時代だった。モータリゼーションと航空機の発達を抜きにしては今世紀を語ることはできない。一生を費やしても可能には思えなかった世界一周を24時間あまりで可能にしたジェット旅客機。誰もが好きなときに好きなところに行くことを可能にした高速道路網の整備。物理学者までが車の流れに興味をもつという現象はそれらを抜きにしては語ることはできない。
 車の流れはいわば現実の世界で物質(=アトム)を個々人が好き勝手に輸送しようとしたときに起きてくる現象だった。では, 仮想空間の中で情報(=ビット)を輸送しようとする場合には何が起きてくるのだろうか。奇しくも海の向こうの大国では情報ネットワークを「ハイウェイ」と名づけている。全土に高速道路網を張り巡らせて現在の地位を得たかの国としては無理もない命名だろう。「ネットワークを高速道路とし, 夢よもう一度」というわけだ。この「ハイウェイ」が象徴しているのは夢の部分だけだろうか。

メーリングリストもゆらいでいる
 者が精力的に行ったゆらぎの研究は次の世代にも受け継がれた。東京工業大学で物理学を専攻し, 現在はIIJに勤務する深町賢一もゆらぎの研究に魅せられた一人だ。彼はゆらぎの研究を「フェルミ=パスタ=ウラム格子のフォノン数のゆらぎの数値計算」【*2】という舌をかみそうな題名のテーマから始めたが, そのうち, 趣味で運営していたメーリングリストの記事の流れに注目することになった。
 メーリングリストに流れる記事の数は決して一定ではない。みんなが興味をもてるような話題が出れば多くの記事が流れることになるし, 誰も興味のない話題ならフォローなしということもありうる。あるいは, 何日にもわたって誰も発言しないかもしれないし, ひとつの話題をめぐって長いこと議論が交わされるかもしれない。つまり, メーリングリストに投稿される記事の量は激しく「ゆらいで」いるのだ。ゆらぎに興味があった深町が(もちろん, 武者の車の流れのゆらぎの研究を知っていた)メーリングリストの投稿数のゆらぎを研究しようと思うのは自然な成り行きだった。
 するとメーリングリストの記事の流れの法則は驚いたことに車の流れと同じだったのだ。つまり,

「投稿と投稿の時間間隔の頻度は時間間隔の2乗の逆数に比例する」(時間間隔の分布則)

 というものだ。車も記事の投稿も同じように人間の営みで生じるものだが, 両者とも人間の意思を超えた(何らかの)法則に司られている。深町はメーリングリストにおける記事の流れをみせた。そのモデルはある記事を読んだときそれに返事を書きたいと思うかどうか, という個々人の意思を簡単な確率モデルで表しただけの単純なものだった。こんなモデルで再現できる程度の“高度さ”しか人間の行動には含まれていないのだろうか。それとも, この「時間間隔の分布則」はインターネットに内在している何かを反映した法則なのか。
 実際, 彼が見出した法則は, ネットニュースにおける記事のフローにも見出された。最初は彼が管理している小さなニュース・サーバ上で実験を行っていたが, より正確な計測のために, プロバイダに就職した友人たちの好意で, より大規模なデータを得ることでき, それによりかなりの確証を得た。その結果, おなじみの法則は変わらなかった。この情報の流れのゆらぎはインターネットにおける情報流の普遍的な性質のように思える。記事を投稿する人間の行動の中にこの「逆比例の法則」が含まれているようには思えない。インターネットの中にこの情報流のゆらぎの法則はどのくらい深く刻みこまれているのだろうか。

パケット流のゆらぎ
 ンターネットで実際に流れているのはもちろん電磁波だ。つきつめれば, インターネット上のすべての情報の流れはミクロに見ればケーブルを流れる電磁波にすぎない。一方, マクロに見れば, すべての情報は画像であったり, 音声であったり, 文字であったりするわけだ。情報流のゆらぎの法則はこの「物理的な電磁波から情報そのものである画像・音声・文字」のどこのレベルに存在しているのだろうか。
 この質問に対する答えにもっとも近いところにいるのは, 東北大学の高安秀樹・美佐子夫妻だろう。夫の秀樹は10年ほど前に一大ブームになったフラクタル研究【*3】の日本における先駆者として高い評価を受けた。彼が著した『フラクタル』と題する教科書は, 純然たる学術書であったにもかかわらず, あたかも一般向けの科学啓蒙書のような売れ行きとなり, 高安自身も弱冠35歳で東北大学の教授になった。妻の美佐子もフラクタルの分野で博士号を取得し, 東北大学で学術振興会研究員を務めている。高安夫妻はフラクタルの理論をさまざまな分野に応用する研究を行ってきたが, 最近, その矛先をインターネットにおける情報流のゆらぎに向けた。
 混んでいるときにインターネットを使うと, データの流れがひどくゆらいでいることに誰しも気づくだろう。遠くのサイト(アメリカやヨーロッパ)やいわゆる「線の細い」サイトににtelnetしているとき, 人気があるホームページにアクセスしているときなど, ときおり画面が凍りついたまま, いらいら待たされた経験があるかと思う。そのとき感じるのは, データ転送の速度の“遅さ”が一様でないということ。
 混んでいるのなら, 情報の流れは一様に遅くなりそうなものだ。たとえば, 家中で水道を使うと(シャワーを浴びながら, 洗濯機で洗濯をし, さらに食事を終えたばかりの皿を洗おう, などどするとき), 蛇口をいっぱいに開いても水がチョロチョロとしか流れなくなるという経験を誰しもしているであろう。だが, 混んでいるインターネットでの情報の流れの“遅さ”はこれとはまったく異なっている。ダイアル・アップで接続している通信速度の遅い端末で, うっかり大きなカラー画像などが入っている“重い”サイトを開いてしまったときなど, 画像が表示されていく速度は決して一定ではない。一気に完全に表示されるかと思えば, 何秒もの間, 画像がちっとも変わらない, というときもある。つまり, 水道の水の流れとは異なり, 混んでいるネットワークのデータの流れは大きく「ゆらいで」いるわけだ。では, そのゆらぎはどのようなものだろうか。

インターネットのしくみ
 ンターネットにおける情報伝達の仕組みについて, 改めてごく簡単に復習してみよう。電話やケーブルテレビのような旧来のメディアにおける情報伝達の仕組みでは, 「1端末, 1回線」が大原則だ。テレビの数だけ同軸ケーブルを用意しなくてはテレビを視聴することはできず, 電話では通話者の数だけ電話線を用意しなくてはならないが, これは情報伝達の手段が旧態依然だからである。現実に情報が流れていようがいまいが回線は占有されたままだ。実際にはテレビを観ていない時間もあるし, 電話は通話していない時間の方がずっと長い。
 世界中の無数の端末をお互いに1対1でつながなくてはいけないインターネットでこのような効率の悪いことをやっていたのでは, 設置, 維持経費が膨大になりすぎてしまう。インターネットが採用している通信方式はまったく異なっている。1本の回線を複数の端末で共有している。しかし, ただこれをやったのでは「混線」してしまうので(1本の回線に複数の電話機をつなぎ, 一斉に会話したら, 複数の人の音声が交じってしまって何を言っているのかわからなくなってしまうだろう), インターネットの回線を流れる信号はまず, 小さな塊(=パケット)に分けられ一つひとつのパケットに「送り手」と「受け手」を表すタグがつけられている。このため, 1本の回線に複数の信号が流れていても, 個々の端末は自分宛のパケットだけを拾い集めてあとから情報を再構成することにより, 混線することなく1本の回線を共有できるのである。インターネットの情報の流れはこのパケットの流れそのものであるといっても過言ではない。

 パケットの流れと「逆比例の法則」
 安夫妻はこのパケットの流れのゆらぎを研究するため, pingというコマンドを用いた。pingは本来管理者用のコマンドであるが, 現在はMacやWindows上にも移植されていて誰でも使うことができる(といってもpingの多用はネットワークに無用の負担をかけるので自粛しよう)。pingの機能はきわめて簡単で, 小さなパケットを送り出し, 戻ってくるまでの時間を報告する, というものである。このコマンドを使ってパケットを多数送り出して戻ってくるまでの間隔を計測すればインターネットの混み具合を定量化できる。そして彼らが見出したのはおなじみの法則,

「パケットが戻ってくるまでの時間の長さの頻度は待ち時間の2乗の逆数に比例する」

 である。インターネットに内在しているゆらぎに関する逆比例の法則は, もっともエレメンタリーなパケットの流れまでも支配していたわけだ。
 高安夫妻はさらに, 逆比例の法則を説明する簡単なモデルを作ることにも成功した。 インターネットの基本的な構造は階層性にある。これは, jp.wired.comとかいうドメイン名の記法や133.24.56.78とかいうIPアドレスの番号づけにも表れている。jp.wired.comが意味するのはcom(アメリカの商業用ドメイン)グループの中のワイアード社のjp(日本)ドメインを意味しているし( 厳密なことをいうとjp.wired.comというドメインは存在しなくて, ソフトの上で「仮想的に」存在しているだけなのだが)133.24.56.68というのは133という上部ドメインの下の24番の下部ドメインの下の56番のドメインの中の68番のマシンを意味する。つまり, 各ドメインはそれぞれいくつかの下部ドメインをもち, さらにその下にいくつかのサブドメインをもち, さらに, その下に……という構造をしている。
 高安夫妻はインターネットの構造を単純化して「すべてのドメインは同じ数の下部ドメインをもつ」という仮定の下にインターネットのパケットの流れのモデルを作った。また各ドメインは「混んでいる」ドメインと「空いている」ドメインに分けられ, パケットは混んでいるドメインを通り抜けることはできない, という規則を設けた。するとこのモデルは「逆比例の法則」を見事に再現してみせたのである。

ビットへの移行は何を変えるのか
 局, モデルのポイントは「ドメイン」を道路のように扱い, 「パケット」を1台1台の車のように扱って, 動力学を構成することだけだった。「道路を移動する車の流れ」と「インターネットを流れるパケットの流れ」は同じ動力学に支配されている。支配されているからこそ, 「ゆらぎ」に同じ法則が現れてきたのだ。「道路と車」というシステムは人間が作り出したシステムだったが, 人間が意図しない「逆比例の法則」を作り出して見せた。インターネットもまたしかり。
 20世紀が「人間の移動力を飛躍的に高めた技術の世紀」であるとすれば, 来る21世紀は「情報の流通速度を飛躍的に高める情報の世紀」になるだろう。つまり, アトムの移動速度を上げるために今世紀に費やされた技術力が, 来世紀にはビットを速く大量に流すために費やされるということだ。だが, 現状を見る限り, 我々の技術はアトムを移動させるのに用いた枠組みをそのままビットの輸送に応用しているだけのようだ。だからこそ, 車の流れと情報の流れが同じゆらぎの法則をもってしまう。
  今, 我々は明らかにアトムからビットへという新しい世紀の入り口に立っている。だが, もし, そこにアトムに象徴される現実の世界からの逃避という意識がわずかでも含まれているのであれば, 我々はひどいしっぺ返しを食うことになるだろう。現実の世界が, 人々が逃げ出したいと思うようなものであるとしても, 現実の世界をそのようにしてしまったのは我々人間にほかならない。深い反省もなく, ただ, 情報の世界に移住してみても何も変わりはしない。つまり, アトムの世界の古いシステムをただ持ち込んでも何も新しいことは生じはしないということだ。
 ビットの世界には確かに核兵器も環境破壊もないかもしれない。だが, きっと, 我々の予測できない別の致命的な害悪が生じてくるだろう。それが何であるかを予測することは, 今の我々にはできない。それは前世紀末の人々が今世紀のさまざまな惨禍, 核兵器や世界戦争や環境破壊を予測できなかったのと同じことだ。今度こそ失敗せずに済ませたいものだ。我々には経験を生かす知恵があるはずだから。
 たかがパケット流と交通流の研究だけであまりにも結論がおおげさすぎると思われるだろう。確かにそうかもしれない。だが少なくとも, これで我々はビットの世界に移っても渋滞やバスを待たされることへのイライラからは解放されないことが保証されたわけだ。
 そうだ, ひとつ大事なことを書き忘れていた。逆比例の法則をもつ場合の平均の待ち時間はどのくらいなのかということを……。その答えは「無限大」。デジタル・ハイウェイにおけるトラフィック・ジャムでは待ち時間は無限大。これだけでも十分大事件ではないだろうか ?


【*1】ゆらぎ Fluctuation
 この世のものは皆, ゆらいでいる。かつて, 時間の定義に使われたことさえある地球の自転速度(つまり, 1日の長さ)だってゆらいでいる。自然現象はだいたい大きなゆらぎをもっているのだ。天気予報でよく使われる「平年」という定義もそれほど意味があるわけではない。「平年」はあくまで過去の記録を平均して「夏の気温はこれくらい」という指標を表しているにすぎないからだ。平均が意味があるかどうかは平均からのずれ, つまり, ゆらぎの性質に大きく寄っている。たとえば, 「夏の平年温度は25度」であったとしよう。そして, あなたが計算機を購入するとしよう。ある計算機は気温20度くらいのときだけよく動作し, もう一つの計算機は気温25度で最もよく動作するとしよう。さて, あなたが夏にこの計算機をよく使うとしたらどっちの計算機を買うべきだろうか。「もちろん, 25度の方」と言い切るわけにはいかない。夏の気温が毎年ゆらいでいて, 年の半分は20度, 残り半分は30度, そして平均で25度, などとなっていたら, 25度の計算機は毎年調子が悪く, 一方, 20度の計算機の方は2年に1回は最高性能が出せるのだから, 20度の計算機を買ったほうがいいかもしれない。
 自然界を理解するにはこのように平均だけでなくゆらぎも大変大切なのだが, 今までの物理学は必ずしもゆらぎを大切に扱ってこなかった。だが, 物理学の対象が自然現象や社会現象にまで広がってくる中で, ゆらぎの研究が次第に重みを増してきている。詳しくは, 本文中でも触れられている『ゆらぎの世界』などを読んでほしい。
【*2】フェルミ=パスタ=ウラム格子のフォノン数のゆらぎ
フェルミは量子力学の創立者の一人で「フェルミオン」などの用語に名前を残している物理学者の名。フェルミ=パスタ=ウラム格子の数値計算は, フェルミがパスタやウラムと共に行った「物理史上初めての数値計算」と言われている。彼等が目的としたのはエントロピー増大の法則の検証だったが, その目論見は失敗し, 代わりに「ソリトン」の発見につながったといういわく付きの研究。このモデルはその他のさまざまな目的に用いられており, その一つが「ゆらぎ」の研究である。
【*3】フラクタル Fractal
 ヨーロッパで生まれた近代科学はその源流を古代ギリシャ哲学にもっているのは有名な話だ。そして 当然, 「科学のための言語」ともいうべき数学もその影響を強く受けており, 直線, 円, 曲線のような滑らかな図形だけを対象としたユークリッド幾何学の上に構築されている。だが, 現実の自然界の図形, たとえば, 樹木, 海岸線, 雲の形, などはすべて, 円や直線の組み合わせでは表わせない形をしている。物理の対象が人工物から自然現象へと広がるにつれて, 基本的な数学の枠組みの制約が物理の進歩の障害になり始めた。
 この様な問題を緩和するため, 数学者マンデルブロによって提唱されたのがフラクタルである。すでに今世紀初頭から数学者の間では知られていた「ユークリッド幾何学の外にある滑らかでない図形の幾何学」を用いて自然界の多くの「形」を記述して見せることにより, この様な形の定量化にある程度成功した。 フラクタル幾何学では, 図形を次元で表現する。たとえば, 雲の輪郭は1.2次元という直線と平面の中間の次元をもっている。直線よりは平面に近いが, 決して平面そのものではないという図形である。それは直線よりはくねくねと曲がっているが, 決して平面を埋め尽くすことはないので「線」のままである。この様な図形を用いることにより, 「雲」の様な物が記述できるようになった。詳しくは本文で触れた高安氏の著書『フラクタル』(朝倉書店)や, 一般向けの啓蒙書『カオスとフラクタル』(山口昌也著・講談社ブルーバックス)などを読んでいただきたい。

田口善弘tag@granular.com)ハードSF研究所員。MacUser/Japan誌付録CD-ROMInteractive Science Columnを隔月連載中。著書「砂時計の七不思議」(中公新書)